第155回〜166回/第168回-1/第168回-2/第168回-3
第164回 圓窓五百噺を聴く会 |
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客席から 聞いたり 見たり |
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2000・07・14(金) 名古屋・含笑寺
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文 仮名 | |
やってきました名古屋の地。 師匠の五百噺を聴くために。 名古屋は鹿児島のあたしんちよりも、蒸し暑さがムンムン。 ML仲間の地元人モテさんが私の宿まで来てくださり、いざ含笑寺へ。 持参した浴衣に着替えているあたしは、生まれて初めての名古屋の街をモテさんの 後ろから、シャナリ、シャナリ。 「もうそこは含笑寺なんですけど、一服しておきましょう」と、喫茶店へ。 店内へ入ると、子供の頃の怪獣番組に出ていた白衣の博士に似た先客にモテさんが 声をかける。 「関山先生!」 こ、これがあの関山和夫先生。はは−−−−っ、と心で平伏。 ご本は読ませていただいておりまする、、、、と、これも心でつぶやくのみ。 同席させていただいて、先生とモテさんが話しをされ、聞くに徹する無口な私。 モテ「もうすぐ、五百噺も終わりですね」 先生「ああ、いろんなことがありましたよ。二十何年も前からだから・・」 そんな、私が生まれる前から……。(うそつけ!) そのの重み歴史に、はは−−−−っ、と再び心で平伏。 「あ、私、こういう者でございます」と、関山先生に名刺を出すモテさん。 え? お知り合いではなかったので? 今までの物怖じしない会話は、一体、、、、なんなのだ、、、。 モテさん、おそるべし。 含笑寺。 大都市名古屋の真ん中にあるとは信じられないような、周りとはまったく別世界の 禅寺がいきなり現れる。 木戸銭を置いて畳敷きの本堂へ。 〔お寺〕から連想される仏教道具(?)がセットしてあるべき場所は、紫の幕がかか っていて見えない。 唯一お寺らしいのは、〔天蓋〕(というのかな?)で、直径2mはゆうにありそう なキンキラキンのシャンデリアのみたいな形状のものが正面中央にぶら下がっている ばかり。 「入場者全員、参拝のこと」ってわけではないのね。 本堂正面、元々一段高くなっているところに高座らしきものが置いてある。 かなり高い。短足な私の足の長さぐらいはある。 後で聞いたら、師匠がダダこねて(ちゃうちゃう)、信念を持って高い高座を望ま れるという。話し手の膝まで見えるように、と。 膝前の仕草ひとつさえ、おろそかにしない芸人の誇りでしょうか。 それに、寄席で噺家さんの顔さえ、前の人の頭の谷間からチラチラしか 見えない時ってのは、こちらも楽しみが8割方減ってしまいます。 文字どおり高い高座で師匠の全身が見られるのは、聴衆にとっても 最高の贅沢です。師匠のご深慮に、改めて敬服。 外より一層暑い本堂の中。 席は、高座正面の最前列から詰めていく人と、ここしかないとばかりに壁際をキー プする人に分かれ、中心と外側の両方からだんだん詰まっていく。 私たちは常連モテさんの提案で背もたれのある壁際、そして、涼を求めて窓際へ。 壁と窓のおかげで、会の間ずっと随分と楽に聴けました。 冬場は使い捨てカイロが必需品だとか。 やはり、少しのことにも先達はあらまほしき事にございます。 お髭の小林先生の開会ご挨拶のあと、師匠、登場。 高座には行かれず、立ったままで〔落語情報〕。 〔寄席の日〕開設の報告に続き、落語[お花半七]のあらすじの説明。 ここで[お花半七]とは……、もしや、あの話……? 師匠「で、夏目漱石の〔三四郎〕という小説に、」 おぉ−−−−っ、出たっ! 師匠「三四郎は宿帳にその女の名前を『花』と書いたんです」 師匠「『半七』の名も洒落て隠されているのです」 うぅ−−−っ。そうなのよっ! 漱石は[お花半七]を意識して、〔三四郎〕を書いたのよ、絶対に! 師匠の大発見。 HPでは読んだ内容なれど師匠の口から伺うと、またものすごい迫力。 サウナ状態の含笑寺で、ズワーっと鳥肌が立ってくるのがわかります。 と、これが終わった時点で、既に開演後40分を経過。 [お花半七]まで聴けたような得した気分。 でも、あと3席、ほんとにお演りになります? 9時ごろまでには終わると聞きましたが、ちょっと心配。 もちろん、あたしは何時まででも、聴かせていただきますけれど。 テープのお囃子で師匠、高座へ。 師「ええ〜、夏はいつも浴衣で演らせていただいてますが、、、」 てぇことは、師匠とあたしは離れた場所でのペアルック。うふふのふ! この高座風景がまたたまりません。 昔の説法や絵解きはこんな雰囲気でやっていたのかしら。 気持ちは既にタイムスリップ。 それにしても、師匠の真上のシャンデリア、もとい、天蓋(?)が やけに気になります。 あれが落ちてきたら、師匠、痛いだろうなぁ。 一席目は名作[紺屋高尾]。 小林先生「これ、まだ演ってなかったのかな、という感じ」 圓窓師匠「もう演ったと思ってましたけど、演ってなかった」 関山先生「最近、こういう廓噺は演りにくい」 とのことなれど、私は好きな噺の一つで、師匠のが聴けるとは超ラッキー。 久蔵が医者に恋煩いを見破られるところ、二人のやりとりがじっくり進むのに、全 然、厭きない。 久蔵の恋……、3年後の親方の思いやりがまた良い、じわりと心に染みてくる。 これって、前に聴いた時は、高尾太夫の涙しか印象になかったんだけど、 前半にもこんな良い場面がある噺だったんだ、なんて…、なんかうれしい。 「流山の大蛇」のくすぐりもしっかり入る。 久蔵と一緒に吉原へ行く時の医者がまた頼り甲斐があって優しくて良い。 ・・ってなことを思っていたら、医者を演る師匠の顔がハンサムに 見えてくるから不思議です。(ん? 「・・・に見えてくる」ってのは何なん だ?) 師「高尾太夫、久蔵の指をじぃーっと見ておりましたが、やがてハラハラハラ〜っと 涙をこぼした」 ふぃ−−−っ、何度聴いても涙が出てくる場面です。 「こんな実(じつ)のある男と一緒になったなら、、、、」 あぁ〜、あたしもそんな思いがしてみたい。。。。 師「愛(藍)に惚れました」 パチパチパチパチ 中入り。 いつの間にやら随分詰まってきた人たちが席を詰め合う。 噺の途中で既に着席の人の前にドタバタ音をたてて入るお客がここには いませんねぇ。 さすがです。含笑寺のお客の質の高さが伺われます。 関山先生のお話に続き、2席目は[三文鐘]。 石川県の昔話から。 内容は7月の〔コミカレ見聞読〕をご参照ください。(おいおい、そんなのありか よ) 鐘の音調べの「かん」「きん」「くん」「けん」「こん」がランダムに叩かれ 始める。 「かん」「くん」「こん」「きん」・・・・ああ、だんだん早くなる・・・ 師匠の鐘を叩く手の場所と音がはずれやしないかしらん。 気の小さいあたしはとっても心配。 3席目は[どんじりの一葉]。 ご存知 O・ヘンリーの〔最後の一葉〕からの創作。 内容は5月か6月の〔コミカレ見聞読〕をご参照ください。(怒るよ、おいおい) [どんじりの一葉]で、病気の娘と叔父さんが会話するころから、サウナの本堂に涼 しい風が入ってくる。そして、雨。 「パラ、パラ、パラ」から「ザーー」っという激しい雨音に変わるも噺に惹き込まれ て、いつのまにか音も気にならなくなる。 お開き。 噺の終わりを待っていたかのように上がった雨後の涼しさの中、散会。 いつも高座の真ん前に座って聴いていらっしゃるという、小柄なおばさまが最後に 席を立つ。 伺うところによると、五百噺の始めの頃からいらしているお客さんもあるという。 ずっとこうして聴いてこられた聴衆のみなさん、スタッフや支援者のみなさん、そ して師匠。きっと、この三位一体こそが〔圓窓五百噺を聴く会〕なのでしょう。 この会が始まってからこれまでの長い期間、いろんな苦しいことや予期せぬハプニ ングもあったはず。それをみなさんの力で乗り越えてこられたに違いない。 噺を続けてこられた師匠の言葉に尽くせないご努力とご苦労。 それを支えてこられた方々。 その尊さが強烈に胸に響きます。 やっぱり来て良かった。 五百噺が終わる来年春までに、こうしてなんとか間に合い、圓窓ワールドの核心の ほんの一部をのぞかせていただくことができたような心持ち。 2時間も師匠の噺を堪能するという、めったに味わえない幸せな機会もいただけて、 まさにファン冥利につきる夜でありました。 《ここからは付録》 終了後、楽屋に呼んでいただく。六畳の楽屋はいろんな人で大賑わい。 「ML仲間のたくみさんだよ」と、ご紹介。 おお−−−−!!!!! ここでお会いできるとは、感激!!!! ここが外国だったら、抱きしめているところ。 中入りで私に会釈をした不思議なお兄ちゃんがたくみさんだったとは!! 「富士コーヒーの塩澤社長」と、ご紹介。 優しそうな眼鏡の奥に、秘められたニヒルさを感じさせる方。 師匠を長い長い間、応援していらっしゃるすばらしい会社の社長様。 その社長様が翌日の蔦茂での落語会で挨拶に立って、 「圓窓五百”小噺”を聴く会」と言ってしまって、 後で師匠に「小の字は取ってください」と言われたなんてぇことは、 私は決して他言いたしません。 「小島ユウヤクの社長さん」と、ご紹介。 師匠の名古屋のお世話人さま。 でも、ユウヤクって何? ああ、焼き物の上薬ですか、ははぁ。 この方の趣味なのか、癖なのか、扱いに困る駄洒落(おいおい、こらこら)の 中に、しっかりとした真面目な考えを伝えてくださる、 奥の深いそれでいて幅の広い素敵な方。 師匠を好きな人にはこんな真面目な人が多い、私を含めて。(おいおい、いい 加にしろ) これは師匠の人となりの成せるわざでございましょう。 の小島さんのご厚意に甘えて、夜の街にくりだす、師匠、モテさんご夫婦、私の五 人。 笑いの堪えない楽しい会話の中に、若輩者の私が教えていただくことがどんなにた くさんあったかは、紙面の関係でここには書けません。(笑) 師匠のお隣の席を頂戴して、至福の数時間を過ごしたことをのろけ話にご披露だけ 申し上げまして、このレポートの〆とさせていただきます。 |
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仮名さんへ 返シ〜〜ン(圓窓 記) 仮名さんにかかると、噺家が異常才能の動物のようで、ヌラヌラと生きたくなりま す。 それにしても、仮名さんの感覚、筆致力は異常才能です。 あの日、あれから三人でカラオケに行ったとき、仮名さんが「祖父の遺言でカラオ ケは駄目なんです」と言ってマイクを握らなかったのには、しっかりした大和撫子だ な、と感心しました。 しかし、翌日も我々のカラオケについて来ましたね。「祖父の遺言でカラオケは駄 目なんです」と言いつつ。 |
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2000・7・22 UP |
第163回 圓窓五百噺を聴く会 |
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客席から 聞いたり 見たり |
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2000・05・12(金) 名古屋・含笑寺
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文 お昌 |
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6時30分、司会の小林先生登場。 この方は私を500噺に誘って下さったT高校の先生である。鼻の下に白い髭を蓄 えて、いつもとおんなじやさしいお話ぶり。今回の演目についてサラリと紹介。 「最初の[小言念仏]は疾うに500噺で出たような気がしたが、はじめてだそうで ・・・。 次の[猿後家]。私の母もズーッと未亡人をやっておりまして…、猿は大好き。あ んなに見飽きのしないものはない。動物園に行くと何時間でも見てしまう」 と、本日の演題につかず離れずの導入をなさる。 待ってました!! 師匠、元気に登場。 濃い茶の紬のようなお召し物。今日も渋いです。明るい色物よりこういう系統のも のが師匠には似合う気がします。着物はいいですね。日本男児は寄席でしか見られな い。師匠の袴姿も見てみたいな。 「今日は名古屋で講演を一つ済ませてきました。保護者婦人会の主催だったので、出 席者は100%女性でした。でも若い女性はいない!!」 それは、ここ(含笑寺)も同じです。みな 27年前は若かったんですが……。 「落語協会やあたしのホームページで読む落語をやっている。[夕立屋]という小咄 をふくらませて、一席物に仕立てた」 師匠、簡単に紹介するつもりなのか、高座の横に立ったままで[夕立屋]の噺を始 める。 「暑い夏の日。商家の主の耳に聞こえた『夕立屋でございー』の売り声。 その商人は本当の雨を降らせるという。 お好みの雨をアンケート方式で丸をつけていく。雨を降らせる広さ、場所、その雨 の量。雷はオプションだけど、どうするか。落ちる場所も選べます。 商家の主の選んだ通りに見事に雨が降った。 これはただ者じやあない夕立屋だ。実は天界に住む竜の仮の姿。 冬になるとどうなる? 暖まりたいなあという客の要望には、せがれの小竜(炬燵) がいたします、というのがオチ」 アンケートを取って、難度の高いものは値段も高いという夕立商法だが、主はあま り金に困っているという印象はない。 殿様商売のような竜に思える。それは竜の言葉遣いに、なんとなく品が感じられた から。 これは、アンケートで選択出来るというアイデアが成功したお話ですね。もとの小 咄も聴いた事がないけど、楽しく笑った[夕立屋]でした。この後、3話あるわけだ から、これはおまけの1席!! ですね。 師匠、いったん引っ込み、黒い羽織で再登場。 その483[小言念仏] マクラに神社やお寺で日本人はよく拝むけど、ちやんと拝んでいる人はいない。何 とかしてもらいたいってエのはダメ。邪念を捨て、欲心を捨てて一心に拝む。合掌は 掌(たなごころ)を合わせ、口のところへもっていく。 邪念は目から入りますから、目をつぶる、耳からも入ります。でも耳は融通が利か ない。鼻からも入ります。匂いとか香りとか。 拝んでいると、隣に若い女が立っている。目をつぶっていても気配でわかる。師匠 は手を合わせて目はつぶっているけれど、鼻をぴくつかせて、女を観察する男の仕草 を表現する。 男の独白「いい女だな、年は・…(聞き取れなかった)。独り者だな。いずれ、こう いういい女と一緒になれる男は幸せだな。それに引き替え、俺は失敗したな・…チキ ショウ、ホウレンゲッキョウ・…」 薄目を開けて、女を上から下まで眺めまわす男の姿がリアルで大笑い。 マクラからすんなり、[小言念仏]に移行。 念仏を唱えながら、思いつく限りの小言を言うじいさん。こんなじいさんが家にい たら、さぞうっとうしいだろう。 BGMとして、聞き流しているおばあさんの方が上手のようだ。念仏の合間に、ど じょう屋を呼び止め値段の交渉までして、料理の仕方も指図する。どじょうが苦しん で腹を見せて死ぬと「ザマアミロ」と喜んで、念仏を唱えている。 こんな人物、いかにもいそうです。念仏は念仏。小言は小言として、矛盾無く同居 しているじいさんの生態が傑作でした。 絶え間ない念仏の間、ずっと叩かれ続けた高座と座布団と扇子の身の上が心配です。 終わって、中入りがあって、 今回も師匠は一人の男性と共に登場。500噺でいつも見かけるお顔。ああ、定例 の含笑長屋(寄席)の世話人のSさんだと気づく。含笑寺名物の関山先生はケガをな さった由。エェーツと驚く客一同。ケガのいきさつや入院中のご様子をSさんがお話 して下さる。関山先生、どうぞお大事に。早い復帰を祈っています。 その直、「ケガをしたことがありますか?」と師匠。 高座の前に座っているおじいさんは手に包帯を巻いている。 目ざとく見つけた師匠、「それ、どうしました?」 おじいさん「テニスで痛めました」 ウーン、あのお年でテニスかあ・・・ 師匠「他には?」 おじさん「鳥取の砂丘から、転がり落ちました。寅さんのマネをしたんだけど」こ の人、とぼけていて可笑しい。 師匠「他には?」 また、別のおじさん「指の先を切りました。植木の刈り込みバサミで、指は落ちる 寸前でした」 イ・イタソウ…。 師匠「ケガをしてるのは男ばっかり。男は働いてんですねえ。女の人はいない?」 「はい」ときれいな声の女性。 「尾てい骨を折って、手術しました。尻尾がないので猿より進化しています」 師匠「尾てい骨って見たこと無いけど、それが無いのも見たこと無いねえ」 女性「私も見てみたいけど、見れないんです。それで、嬉しいときに尻尾が振れな いんです」 気の毒だけど大笑いしました。皆さん、見事に自分を客観視している。話にオチま でつけて。 一見、じいさん(おじさんも)、ばあさん(おばさんも)ばかりの地味な落語会の ように見えるけど、皆さんの話しぶりを聞いてぴつくり。一気に親近感が増しました。 その484[袈裟斬り地蔵] 肥後熊本の民話より。 羊角湾を臨んだ小島に住むおじいさんとおばあさん。こどもがいないので梅の木を 育て花を咲かせていた。 ある日、千石船から、小舟にのった侍達が乗リつけて水を所望する。 殿のお小姓が威張っている。梅の木を船に持ち帰るために、刀で切ろうとするが、 おじいさんが必死で嘆願する。 日頃、殿に可愛がられているお小姓は、嵩にきておじいさんを斬ろうとする時、殿 と家来が現れ、事情を聞くと、肥後武士の名折れとばかりに小姓を袈裟斬りにした。 小姓の死体は置いたまま島を去る殿さまたち。 石のお地蔵様を作って菩提を弔うが、なぜか地蔵には袈裟斬りのようなひぴが入っ て、割れてしまう。 何体作っても同じである。浮かばれないお小姓をていねいに弔ってやると、新しい お地蔵さんにはキリキズは現われず、割れることもなかった。 だんだんと年取っていく 2人が、これから先のお地蔵さんのお参りを心配すると うぐいすが「ホー、ホケッキョウ(法華経)」と啼いた。 「ちょっと無惨なところがあるお話で」と師匠。 同感です。寵愛する小姓を簡単に切り捨てるお殿様。どうせなら、殿様に取り憑い てやればいいのに。うららかな小島の梅の花、お地蔵さん、うぐいすと道具立ては一 幅の絵でした。 その485[猿後家] 人は何かに似ているもの。 八百屋の前を行く年増の後ろ姿が、とても粋だと騒ぐ男に,連れの男は「川口屋の 後家さんだよ。一度前に回って見てご覧よ」と忠告。 「後ろ弁天で、前不動」「サル、サル、猿後家」と大笑い。 これを耳にした後家さん、大泣きして家へかけ戻る。猿に似ていると評判のお内儀 さんだったのだ。 女中も「猿がお内儀さんに似ている」と慰めてしくじる。家中「猿」という言葉は 禁句になる。 幇間ではないが、出入りの可愛がられている男、甚兵衛。番頭におかみさんのご機 嫌をとるように言われたがつい、「猿回し」の話をして失敗。番頭に先代のヨイショ 屋の失敗談を聞き、アドバイスを受けて再びやり直しのヨイショをトライ。 お内儀さんは、小野小町、照手姫(てるてひめ)、楊貴妃に似ていると必死の弁明。 ようやく出入りを許される。 「お内儀さんに嫌われたら、私は木から落ちた・・・」 ハッと気づいて途中で呑み込む。 「木から落ちたなんだい」と詰め寄るお内儀。 甚兵衛、ブルブルッとして「言わ猿」。 この噺は女性の容貌を題材にしています。落語だもん、野暮はいっちゃあいけない と思いますが、あまり、からっとした印象がありません。私も猿に親近感をもってい るから。お猿さんはとても他人とは思えないのです・・・・ でも、ほめられるとすぐご機嫌を直す単純なお内儀さんは可愛い。 |
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2000・5・20 UP |
第162回 圓窓五百噺を聴く会 |
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客席から 聞いたり 見たり |
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2000・03・10(金) 名古屋・含笑寺
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文 お昌 |
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前回1月とはうってかわって、冬に逆戻りしたかのような寒い日。 お寺の講堂は火の気全くなし。コートを着たままの人、膝の周りに上着やマフラー をきっちり巻きつけて防寒に余念のない客たち。 今日の出囃子は音も澄んでいて快調。 師匠は思いの外(?)足取りも軽くスタスタと現れました。 グレーの光沢のある着物にベージュの半襟という渋いいでたちで、腰に扇子を差し ている。 にこやかに開口一番「落語情報」と言って、始まりました。 今回は師匠の「自転車転倒大事件」の詳細な報告がありました。 最近、洋画を見まくっている師匠は、レンタルビデオ屋に行くのにおかみさんの自 転車を使いました。片手でハンドル、もう片方の手は上着のポケットに手ェ突っ込ん だ格好。名古屋の聴衆は内心「師匠、えりゃあ、ナマカワ(怠け者の意味)だわ」と 思ったことでしょう。 いつもはこれで問題なかった。師匠「歩道の切れ目の縁石を避けようとして曲がり かけたとき、ペダルのこっち側が縁石に当たる。自転車が止まりかけてもアタシのカ ラダは止まらない。手ェついたら骨折るなと思い……」「気がついたら、地面に着地 していた。自然に一回転したんですよ。その証拠の品があるんですよ。」「そのとき アタシが何を思ったか?皆さんのお顔なんですよ」アハハと笑い声。「後で見たら足 の爪の色が変わっていた。女房に見せたらキタナイって、手当てもしてくれない」と ぼやいて見せる。 自分の痛みも話のネタにして笑いをとる師匠。ナマカワスタイルながらも、とっさ の判断力と敏捷な身のこなしはさすがでした。 その480 提灯屋 小さんの十八番。昔、提灯はなくてはならぬもので、外出のときは欠かせなかった。 チンドン屋が配っていた広告をもらった暇な男たち。いろいろと推理する。 「広告の店へ行くよ」「どこなんだ」「書いてあるよ」「読んでくれ」「次へまわす よ」などというばかりで誰も字が読めない。そこへ米屋の隠居があらわれ、広告を読 んでくれる. 実は提灯屋の広告で、紋や印(しるし)の描けない物があったら、無代でよいと書 いてあると隠居に聞き、色めきたつ男たち。 ただで提灯をせしめようという男、そのT。提灯屋に行き「鐘馗様が大蛇を胴切り にした紋を描け」「紋帖にない」と提灯屋。「これは剣酢漿草−ケンカタバミだ」と まんまと提灯をせしめた。 次の男は「仏壇の地震―鈴(りん)も灯?(どう)も崩れる.竜胆くずし」でこれ も成功。 その次の男「床屋の看板が湯に入って熱いー ねじ梅だ」 またその次の男「そろばんの掛け声が81― 99(くく)で大もうけ。で、道楽 して女ができて、女房がやいのやいので離縁で括り猿だ」とまるで判じ物。 隠居が男達を戒めて、謝りに行くが、提灯屋は元締めが来たと思って恐い顔。 サゲもきれい。 感想 有名な落語ということですが、初めて聞きました。前半は字の読めない男たちが、 なんとか読もうと想像をふくらませる。紋帖にないなら、提灯はただと聞き俄然張り 切る男たちの発想が愉快。 いくつも提灯を取られた提灯屋の顔が、だんだんと膨れて恐い顔になっていくのが 面白い。素直に笑ったお話でした。 さて、このお話の時代はいつ頃なのでしょうか? 江戸時代でしょうか?チンドン やとか、中華料理なんて言葉が出ていたので、明治頃かな? などと思って聴きまし た。 中入り いつもは、関山先生の落語にまつわるお話があるのですが、今回大学の関係でご欠 席。 師匠は一人の男性を伴って登場。この方、いつも高座の前に、師匠にお茶を出され るYさんと言う方だそうで、お仕事は、臨床レントゲン技師であると自己紹介。 師匠は病気について質問責め。「肺ガンとか、何とかガンとか言いますが、心臓の ガン、心ガンってのはありますか?」 Yさん、困っている。客席より声あり「心眼」。 たまには、対談ってのもいいですね。今度関山先生と対談なさって下さい。あるいは お客さんとか。 その481 空飛ぶ托鉢 お坊さんが、托鉢に行くときの鉢は鉄鉢(てっぱつ)という。ホウジョウザン、一 乗寺のホウドウ仙人は毎日托鉢をする。 ある日、猫をよけようとして、倒れてしまった。托鉢が出来なくなって、米も途絶 え、細々と暮らしていた。 ある日のこと、托鉢がないことに気づく。 鉢は東の方から音を立てて飛んできた。鉢が助けてくれたのである。毎日、空を飛 んで托鉢するので町中の噂となる。 鉢の中からお経が聞こえてくるので、空鉢仙人という名がついた。ついに鉢は沖を 通る船まで飛んでいった。 沖の大きな船の米俵にとまるが、船頭は鉢を海に投げ捨てた。すると、米俵がまる で雁のように寺に向けて飛んでいった。 船頭があわてて、寺にきて謝る。 仙人は「この鉢に一握りの布施をあげなされ」と諭す。 船頭が言われたとおりすると、米俵はまた、元の船に飛んで戻っていった。 この噂が広まりお寺が栄えるが、隣町の強欲な住職が、これを真似する。 最初はひびの入った鉢を飛ばすが、ムシケラやごみばかりで失敗する。普段から強 欲なのでもらえないのだ。住職懲りずに、次の鉢へ命じるところでサゲとなる。 感想 この噺も初めて聞きました。(当たり前か?) ほんの少しの情けを戴くというのが、托鉢の精神なのだ。欲張っては失敗する昔話 のあれこれを思い出しました。 その482 立て替えの遊び 昔は働くことは働くが、遊ぶときは豪快にやったというお話。 「万八」という料理屋に、駕籠で現れた60歳くらいの男。上品で粋ななりである。 遊ばせて欲しいという。気の利く若い男「喜助」が世話をすることになる。 店に上がる前から、2両の立て替えを依頼。それは駕籠屋にはずむ。次は5両の立 て替えを頼み、それは仲居へ。芸者と幇間を呼ぶが、きれいな遊び方である。それら に渡す10両と20両の立て替えを頼む。 そのたびに帳場の不審感は募っていく。次に30両とエスカレートしたとき、帳場 がストップをかける。「上手に断りを言え」と言われた喜助。 隠居に断りを言うが、隠居、あっさりと自分の持参した柳行李から小判を出して、 支払いをすませ、残った小判を「節分ごっこ」だと言って、バラまいて帰っていく。 この隠居の素性を知った喜助と万八の経営者。なんとか、とりなそうとにぎやかに 山車を作り、お祭り騒ぎをして、隠居に喜んでもらう。 再び、現れた隠居に立て替えの用意が出来ていると言うが、隠居の頼みは……、と いうところでサゲとなる。 感想 これも有名なお話と言うことですが、初めて。つまり落語をほとんど知らないんで す。 大店の隠居のゆったりとした口調。ホント、金持ちに早口は似合いませんね。 帳場の疑心暗鬼。「このお客、大丈夫?」という気持ちがよく表れています。大金 持ちになってパアーッと景気良く、金を使ってみたいという庶民の夢を果たしてくれ たお話かな? なぜ、隠居は金をいっぱい持っているのに、立て替えを頼むのだろう。どこまで人 を信用するのか試しているのだろうか。人が良さそうなだけの隠居ではなさそうだ。 |
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2000・03・25 UP |
第161回 圓窓五百噺を聴く会 |
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客席から 聞いたり 見たり |
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2000・01・14(金) 名古屋・含笑寺
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文 お昌 |
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名古屋含笑寺の寄席風景をできるだけ詳しくと試みたんですが、やっぱり落語は生 で聴く物。 万分の一も描写できませんでした。 一月も半ばというのに日中は春のような暖かさ。師匠も汗をかきかき名古屋の街を 歩いたとか。師匠の出囃子も間延びしていまにも止まりそう。 「これは気温のせいですよ。テープのせいじゃあないですよ」 と、師匠はフォローしていたが、このテープ、もしかしたら20年のキャリアの持 ち主かもしれない。 例によって落語に入る前に四方山話。 この話をしている内に客はどんどん入ってきて、座布団を引っさげてそれぞれ好き な場所に座る。ここでは座布団は山のように用意されていて、2枚、3枚と重ねても 全く自由。好きな場所といえば、なんと言っても人気は壁際である。部屋に入ってぐ るっと見渡すと、たいてい先客が壁に貼り付いているんである。2時間の長丁場を耐 えるためには、壁にもたれて足を投げ出して聴くスタイルが一番ラクだからだ。 師匠は正座をしているのに、客のこの格好は……。 私、ラッキーなことにこの日、壁は確保できたが、着物を着てきたのだった。私も 2時間正座の苦行をしたのであった。 お客全員に配布された、協会誌〔ぞろぞろ〕の表紙の羽織の紐もあでやかだが、そ れに負けないサーモンピンクの着物に青い半衿を覗かせた師匠も粋で、髪は短く、血 色もよく、すこうし太られたような。きっと新年会をやりすぎたのでしょう。 話題は〔ヨーガス長屋〕のこと、インターネットの連句、師匠の還暦の話など。 ここで一つの秘話を披露。師匠のおかみさんは3つ年上。年のことは圓窓家ではタ ブーなのに、数年前、あろうことか弟子がかみさんに「還暦のお祝いをしたい」と言 ったそうです。 なんて大胆な弟子だ、とドキドキする師匠。 かみさんはやんわりと「お父ちゃんと一緒でいいよ」とお断りになったとか。 今年は師匠とおかみさんのお二人のお祝いの会が開かれることでしょう。 「もう孫も4人いますよ」 こんなエピソードを客は嬉しそうに聴く。聴き手をほぐすなごやかなひととき。 その477 金明竹 大変に有名な落語で、今まで含笑寺でやったことがないのが不思議というもの。 師匠はそれこそ前座時代に覚えたもので、それっきりやっていなかった代物という。 若い頃に覚えた噺は忘れないもので、最近覚えた創作落語は忘れやすいと告白。 落語は善人が登場するもので極悪人はいない。これは与太郎が主人公で、何を言わ れてもへまばかりやらかす長松。主人であるおじさんの命令をことごとくずれてやっ てしまい、とうとう店番をやらされる。長松の胴間声を聴いていて、ふと師匠の顔を 見たら、口をぽかんとあけて長松になりきっていた。当たり前かもしれないけど、す ごいなあ……。 [金明竹]、前半部分は狂言の[骨皮(ほねかわ)]と全く一緒で、筆者は素人狂言 で[骨皮]の住職の役をやったことがありました。 住職はおじさんで、新発意(しんぼち)が長松。傘を貸したり、馬を断ったり、住 職をエロ坊主とすっぱ抜いたりと狂言(和泉流)の方は結構下品で、怒って新発意を 叩く住職は、逆にたたきのめされるのでした。 落語の方がおおらかさがあって,それは長松の間のびした声によく表れていました。 後半部分では関西弁の男が七品の道具の口上を述べるのですが、よくわからない長松 は何度も言わせてしまう。おかみさんもやっぱりわからない。江戸の人間にとって、 関西弁はかくも宇宙語であったのかと思わせるクライマックス。師匠の関西弁は実に 流暢で立て板に水。関西弁のイントネーションも問題なし。(私は隠れ関西人でもあ る)。オチの「蛙」も納得のいく噺であった。 私、[金明竹]は初めて聴いたのです。この噺は自分自身と重ねて共通部分が多く ておどろきました。 狂言[骨皮]が原作であること。 大阪弁がふんだんに聴けたこと。 関山先生が「金明竹は三重県津市の高田本山、専修寺の庭に植わっている」とおっ しゃたこと。実は、先週、母と一緒に専修寺のお七夜参りに行ったところだったので す。 その478 鬼の通い酒 佐世保には大小、さまざまな島が多数あって、誰にも正確な数はわからないそうだ。 百島といわれた島々が九十九島になったという佐世保の民話から、落語のアレンジ した作品。 百の島にはそれぞれ鬼が住んでいて、その島々から鬼たちが毎晩、舟で佐世保の浜 の飲み屋へ呑みにやってくる。ほとんどの鬼たちは舟でまた島へ帰るのに、ある島の 一匹の鬼は酔いつぶれるまで呑み、自分の島へは遠くて帰れず、近くの一里島へ泊ま って、翌晩また呑みにくる。 つまり、100−1=99。で、九十九島になったという。 この鬼、大酒のみで浴びるように酒を飲み、店に迷惑をかけている。また自分はも ともと鬼でなく人間で、親を探していると思い込み、そのことを会う人毎に言うので、 気味悪がられている。 鬼ごっこ、鬼のかくらん、鬼の居ぬ間の洗濯、おにぎり、おにしめ、鬼の目にも涙、 などのことわざを駆使して、酔っ払い鬼を諭す江戸の遊び人。 それを聞いて、涙を流す鬼の姿に哀愁がある。 九十九島に戻る鬼が、浜辺をキュッキュッと歩く砂の音。月の光を浴びて足跡が真 っ直ぐに続いている。 小さなカニたちの会話。 「おい、いつも横歩きの鬼がまっすぐ歩いてる」 「相当、酔っ払っているのだろう」 大酒のみだけれど、哀れさを漂わす鬼の声。 江戸っ子の歯切れのよいせりふ。 飲み屋のおかみさんの人のよさ。 これらがよく表現されていました。 この鬼さんは改心してくれたけれど、人間のアダルトチルドレン(アルコール依存 症が原因だとか)の人に聴かせてみたいお話です。 その479 ウラー菜の花 高田屋嘉兵衛の生涯をたどり、故郷の菜の花の咲き乱れる情景が目に浮かぶお話。 小さいときから利発で、長じて回船問屋となったが、常に正々堂々とした嘉兵衛の 態度が人間関係を深めて、ロシアの艦長にも信頼され、人質交換も苦労の末、見事に 果たした。 函館を私財を投じて都市計画をした。 当時の蝦夷地の人々にも平等に接して、決して他の和人のようなひどいことをしな かった。 晩年、嘉兵衛が名付け親となってやった、菜々と菜吉の声が愛らしい。 子供達に聞かせる蝦夷地の思い出。 ロシア人リコルドと別れる際に、「ウラア、大将」と呼ばれ、また「ウラア、ギア ナ号」と交換したことが脳裏をはなれない嘉兵衛。 臨終の時がきた。 菜々と菜吉だけが、嘉兵衛の気持ちを汲んで、沖に向かって「ウラア、大将」と叫 ぶ。 高田屋嘉兵衛は、日本人が誇りうる人物。ヒューマンで堂々とした態度は今の政治 家にはまったく欠如しています。 落語というより、物語のような印象でした。 蝦夷、ロシアの艦隊、一転して淡路島の菜の花と蝶々があざやかに目に浮かびまし た。 |
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お昌さんのレポートを読んで |
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文 たくみ |
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名古屋は含笑寺での圓窓五百噺を聞く会(第161回 2000・1・14)へは、 風邪が長引いてしまって参加できませんでしたので、お昌さんのレポートは、ありが たく思います。感謝! その478[鬼の通い酒]についての文中に、 >この鬼さんは改心してくれたけれど、人間のアダルトチルドレン(アルコール依存 >症が原因だとか)の人に聴かせてみたいお話です。 この部分ですが、逆に、AC(アドルトチルドレン)は、ACが原因でアルコール 依存症になってしまうパターンもあるそうです。 親がアルコール依存症の場合や暴力的な場合に「自分さえいなければ丸く収まる」 「自分が本当に言いたいことや感情(ホンネ)を表現すると、また親が暴れて恐いか らホンネは表現しないでおこう」という構造で、本当の自分を表現することなく大人 になってしまうと、ACになっちゃうのだとか。 相手に自分のホンネを表現しないので、コミュニケーションエラーが起こり、孤立 したような状態になり、心の中では「こんなハズじゃなかったのに」と本当の自分を 喪失したような状態になるらしいです。 「自分のホンネを表現しない方が丸く収まって賢い」という考えは、日本人(特に尾 張や三河(^^))の中に潜在的に住み着いているような気もしますけどね。 世間話で はホンネをばんばん言っていても、公の場に出ると黙ってしまうとか、自分の本心を 代弁してくれた人を「わしゃーしらんもんね」と見て見ぬ振りをするおおかたの日本 人ってACなんじゃないかぁ? ぬぁーんて思ってしまいます。(笑) 「自分史を落語にして自分を表現しよう!」ってな感じで、新しいAC療法をやって みるのも面白いかも。 難しいだろうけど……。(苦笑) |
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2000・3・11 UP |
第159回 圓窓五百噺を聴く会 |
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客席から 聞いたり 見たり |
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1999・9・10 6時半 名古屋・含笑寺
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文 お昌 |
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今回から会の感想をかかせていただきます、お昌と申します。 こいうことは初めてで、とても自信はないのですが、師匠に口説かれました。みなさ んから笑われるのを承知で、書かせていただきます。 さて、前回、前編でした[お藤松五郎]の後編。 「水茶屋の女お藤、年は19で大層美しいが、万屋清三郎の囲われもの。一中節の師匠 をしている菅野松五郎は若いが腕もよく評判の好い男。この2人の恋は間の悪いことば かり続いて、ついには凄惨な事件へと展開していく」 と、前編のドラマをマクラとして、後編に入る。 思い出したことがある。 締め切った部屋で男と女が相対しての情景を、師匠が「外は雨」「締め切った部屋」 「男と女」とあえて何度か言うので、こっちは「これはもうなんにも起きなかった方が 変だよ」という気になりました。 お藤の家での二階で思いを遂げた2人が熟睡していると、旦那の清三郎が幇間を引き 連れてやってくるのだが、これがまた事件を大きくする。松五郎と清三郎は半ば喧嘩状 態となり、二人はそろぞれ帰って行く。 翌日、約束がしてあった2人。逢い引きの場所へ行こうと出たお藤は、運悪く旦那と 幇間に呼び止められる。迎えに現れた松五郎。歯車の狂っていく2人の恋の結末を予感 させるような、松五郎が箪笥から刀を取り出す場面で終わった。 [銭たれ馬] 福岡の民話を題材にしたもの。馬と笊と十文しか持ってない又蔵が、見事に長者どん をあざむくおおらかなお話。 [胸の肉] 「ヴェニスの商人」を師匠が脚色したもの。ヴェニスを江戸に置き換えて大岡政談に仕 立てた。シャイロックは清六、アントーニオは安藤似蔵である。 金貸しの清六は金を借りに来た医者の似蔵から「返済のない場合のカタに胸の肉を貰 う」という証文を取る。 清六が似蔵に抱く憎しみの原因はなんだったのか? 聴いているうちに、段々、解っ てきて、わくわくしてくる。 金貸しの清六には病気の女房がいた。女房が苦しんでいる時、医者の似蔵を呼びに行 ったが、不在。女房は苦しみのあまり包丁で自害する。「女房が死んだのは似蔵のせい だ」と復讐心をもやしていた清六は期限切れをいいことに、「あくまで胸の肉を取るこ と」を主張し、似蔵が「借金を倍にして払う」と言っても承知せず、ついに大岡裁きと なる。 「ヴェニスの商人」はシェイクスピア劇の中でも親しみやすく、私は福田恒存訳で読ん だ。冷酷で醜いシャイロックが強調されればされるほど、同情を感じた。美しい恋人た ちよりも印象に強く残った。キリスト教とユダヤ教の対立。差別されていたユダヤ人は 金貸し業が多く、当時も憎まれた存在であったろう。 慈悲を与えよという大岡越前守の説得も、復讐心に凝り固まった清六の耳には入らな い。ついに清六の主張を認めるが如くみえたが「肉は切り取ってもよいが、ただし血は 一滴も流してはならぬ」というクライマックスの場面になる。[胸の肉]も大岡越前守 が小気味よく清六を裁くお白州の場面が鮮やかであったが,裁きを受けて「ハハ……」 「ハハア……」と平伏する清六の姿に一抹の哀れを漂わせていた。 あたしはまた昔と同じように同情を感じた。 |
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1999・10・3UP |