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仏笑噺 | 圓朝作品 |
初演者 邑井貞吉 伝授者 六代目 三遊亭圓生 口演者 六代目 三遊亭圓窓 時 明治の初期 場所 武州 熊谷 |
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主な登場人物 | |
鳴物師 吉住万蔵(二四歳)万 旅篭「扇屋」娘 お稲(二六歳)稲 父親 耕兵衛(五五歳)父 母親 お作(四五歳)母 光龍寺 和尚 鉄如(七〇歳)和 小僧 珍念(一〇歳)小 旅篭「小松屋」飯盛り女 お中(一七歳)女 |
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万蔵「道成寺か……」 しばらく、その三味線を聞いておりましたが、そのうちに、自分の荷物の中 から鳴物の鼓を取り出して、調子をみてから、その三味線に合わせて、打ち込 み始めました。 下の三味線がびっくりしたのか、瞬間、手も止まりましたが、やがて、また、 しばらくの間、三味線と鼓の音が響き渡り、辺りの物音が遠慮したように静ま り返った。 一曲、終えたようです。 お稲「{二階へ上がってきて}ごめんくださいまし。あのゥ、お邪魔してもよろしゅ うございましょうか」 万蔵「はい…、どうぞ」 稲「あのゥ、今、鼓を打ってくだすった…」 万「ああ、ちょいと打たしてもらいましたが…。三味線を弾いてたのは…?」 稲「あたくしで…」 万「ああ、そうでしたか。悪かったかな、邪魔をして」 稲「いえ、とんでもございません。鼓を打っていただいたことはありませんでしたの で、びっくりいたしました。あの…、あたくし、この宿の娘で稲と申します。下手 な三味線をお聞かせいたしまして」 万「いや、そんなことはない。いい手だ。つい、あたしも道具を持ち出して、ちょい と打ちましたがね。いい三味線だなあ。誰かについて習ってんのかい?」 稲「はい、この土地に古くからいる師匠で、おてるお師匠さんについて…」 万「そうかい。その師匠の教えがいいんだろうな、本物だ。また、お前さんの筋もい いし…。どうだい、ここで改めて聞かせておくれな」 稲「ここでですか? いえ、もう、とても…」 万「そんなことないよ。あれだけ弾けるんだ。あたしも張り合いが出て嬉しいよ」 稲「そんなことを言われると、よけいに弾けなくなります」 万「まァいいから、三味線を持ってきなさい」 お稲は下ィ行って、しばらくすると三味線を持って上がってきた。 このことを親にも話したんでしょう。喜んだふた親があとから付いてきた。 父親「娘の三味線を聞いてくださるというので、お礼の一言でもと思いまして」 万「いやいや、そうされると、こっちが困りますよ」 父「宿帳を拝見させていただきました。吉住万蔵さま…、と申しますと、江戸の鳴物 の方で…?」 万「あたしなんぞ、まだまだ若造でね。江戸にいると小言ばかり食らってますよ」 父「あたくしには一向にこういう歌舞音曲というものはわかりません。娘は使い物に なりますでしょうか」 万「いいねェ。娘さんの三味線には正直言って驚きました。江戸にだって、こんなに よく弾く者はたんとはおりませんよ。ときどき仕事でこちらの方も回ってますが、 知らなかったなァ…。この熊谷にこんなにいい弾き手がいるとは…。改めて聞かせ てもらおうと思ってね。よかったら、お二人もそこでお聞きなさいな」 母親「娘の三味線は毎日、聞いておりますが…、人さまに聞いていただいたことは一 度もございませんでした。こんな嬉しいことはございません。 {脇へ}ねぇ、お父っつぁん」 父「そうだとも、そうだとも…」 万「お稲さん。なにを弾く?」 稲「じゃァ…、〔舌出し三番叟〕」 万「うん」 万蔵も嬉しそうに、お稲をちらちら見ながら、打ち込んだ。 万「もう一つ、いこうか。なんでも、いいよ。うん、〔鶴亀〕…? はいよ」 万「おや…? いつの間にやら、木に烏がどっさり…」 稲「いつもなんです。あたしが三味線を弾き出すと、決まって烏が寄ってくるんです」 万「烏は三味線の良し悪しがわかるんだ」 稲「近所の人たちも『あの宿はなにか祟っているんだろう』って、言い触らす人もい ます。親も『縁起が悪い』と言って、烏を追っ払うんですよ。あたしには烏だけが 聞き手だというのに……」 万「追っ払っちゃいけないね。烏はお稲さんの仲のいい友達だもの」 稲「はい…、それに今日はお師匠さんの鼓が入ってますので、いつもより烏は多いよ うです」 万「そいつは嬉しいね」 ふた親もよほど嬉しかったんでしょう。この間に、酒、肴の支度をして運ん できた。 父「酌は娘にさせますので、召し上がってくださいませ。 {稲へ}稲。粗相のないようにな。 {万蔵へ}では、どうぞ、ごゆるりと」 万「ああ、お気遣い、すみませんな。 {稲へ}お父っつぁん、おっ母さん、大層な喜びようだね」 稲「普段、嫌味ばかり言ってたんですよ。あんなに喜んだ顔って、初めて見ました。 これもお師匠さんのおかげです」 万「親孝行のお役に立てば、あたしも嬉しいな」 稲「お師匠さん。召し上がってくださいな」 万「そうかい、すまないな。{一口飲んで}旨い。地酒かい。いいね。あたしはそん なに飲むほうじゃないだが、薦める人がいいと、ついついやっちまいますよ。酌は たぼというが、まったくだ。お稲さんはなかなか薦め上手だね」 稲「あら、嫌だ、薦め上手だなんて」 万「これは嘘じゃないよ。さっき部屋ィ入ってきたとき、こっちはひょいと見て、あ まりにもきれいなもんで、びっくりしちゃったよ」 稲「嫌ですよ、お師匠さん。あたしなんざァ、もう駄目ですよ」 万「駄目ってぇことはないでしょうが…。旅篭だから多くの出入りもあるし、なんだ かんだと言い寄ってくる人もあろうし、選ぶのに骨が折れるんじゃないかい」 稲「そんな人、いるもんですか。もうこの歳ですから、鼻もひっかけてもくれません よ」 万「この歳って…、いくつだい?」 稲「嫌ですよ、女に歳を訊くなんて」 万「知らないから、訊いてんだよ」 稲「そう言う、お師匠さんは?」 万「あたしは、二十四だ」 稲「じゃァ…」 万「じゃァ、なんだい?」 稲「あたしのほうが…、二つ、上です…」 万「ほう……、若く見えるね」 稲「そんな無理は言わないでくださいな。……、お師匠さんは、お一人ですか」 万「そう。自慢するわけじゃないけど、一人者だ」 稲「それこそ可変しいじゃありませんか。こんな田舎と違って江戸はそれこそいい女 がどっさりいて、お師匠さんなぞは引く手あまたでしょうに……」 万「とんでもない。そりゃァ鳴物師をやってるから、芝居やおさらいなど、女の集ま りそうな処で仕事をやってますが、本当に芸のわかる人なんていやァしないよ。な んか、パーパー言う人はあっても、真に芸のわかる、実のある女となると、いない ね。 それだけに、お稲さんの三味線を聞いて、あまりにもいいので驚いたんだ。それ に、すこぶるつきのいい女だもの」 稲「でも、許婚の方、いらっしゃるんでしょう…?」 万「いいや、いません」 稲「……、じゃァ…」 万「そんなことより、飲んでおくれな」 稲「あたし、不調法で…」 万「飲めないのかい」 稲「はい」 万「飲んだこと、ないのかい」 稲「はい」 万「はなは誰でも不調法。あたしもそうだった。だから、お稲さんは今日から調法者 になっておくれ」 稲「…、困ります」 万「あたし一人で飲んでたって、つまらないよ。相手をしておくれな」 稲「じゃ、形だけ…{と言いつつ、ためらい勝ちに口にあてる}」 万「ほぅら、飲めたじゃないか。さ、もう一つ」 稲「いえ、もう」 万「あのね。一口飲んで、『いえ、もう』じゃァ酒屋はつぶれちまうよ。さッ」 稲「じゃ、これだけですよ。{少し早めに飲む}」 万「おお、飲める、飲める。さ、駆けつけ三杯」 稲「もう駄目ですよ」 万「そうはいかないよ、ここまで飲んだんだから。さァ」 稲「じゃァ…。{覚悟を決めて飲む}なんだか、ポーとしてきました」 万「お稲さん。江戸ィ出てこないかい?」 稲「江戸へ…? あたしが…?」 万「ああ、そうだよ。あたしは『物見遊山に江戸へ』と、言ってるわけじゃない。お 稲さんの三味線の腕を江戸で試してもらいたいんだ。あたしは三味線弾きじゃない から教えられないが、いい師匠は幾人も知っている。そこへお稲さんを預けるから、 そこでみっちりと修行をしておくれな。下地はあるんだから、大丈夫さ。 ま、この土地の師匠の悪口じゃないよ。いいかい。芸というものは、自分一人で 巧いと思っても高が知れている。大勢の名人上手の中で揉まれて、初めて本物にな るもんなんだ。この熊谷で『巧い』『上手』と言われても、それで固まっちまって、 お終いさ。それより、勇気を持って江戸の凄い芸の中へ飛び込んでってごらん。 あたしは、今のお稲さんの三味線が即、江戸で通用するだなんて、甘いことは言 わないよ。あとは、お稲さんの力だ。あたしは、お稲さんにはその力があると思う。 断わっておくが、あたしはお稲さんの器量に惚れてこんなことを言い出したわけ じゃないよ。器量に惚れたり、色香に迷わされたんだったら、もっと甘くささやい てますよ。 あたしは嘘の言えない男だから、正直に言っているんだ。まだまだ出し切ってな いお稲さんの良いものを江戸で出してもらいたいんだ。ここでは残念ながら、出せ ないだろう。 お稲さんの腕なら、ものを見る目も持っているだろう。聞く耳も備えているだろ う。江戸に行けば、ものすごい三味線弾きがゴロゴロしていることがすぐわかるは ずだ。 人の芸の良し悪しのわからない者を江戸に連れてったって、無駄さ。返って、可 哀そうさ。江戸のすごい芸の渦巻く中で、『あたしが日本一さ』って、ひどい芸を 振り回されちゃァお笑い草だ。 お稲さんなら、そんなことないと思うから、こうして話をしているんだ。あたし は実を込めて言っているつもりなんだが、口下手なもんで、不実な男のように聞こ えるかもしれないが…」 稲「…、お師匠さん…、それ、ほんと…?」 万「当たり前さ。『酒の上だ』と、思われんのも嫌だから、あたしゃ、さっきから、 盃は下ィ置いてますよ」 稲「{小さく泣き出す}」 万「どうしたい…? なんか、気に障ること、言ったかな…?」 稲「あたし、これまで、こんなに褒められたことなかったんです。烏が寄ってきただ けだったんです」 万「あたしはその烏を信じたいね。烏に訊くと、『江戸へ、イコー、イコー』と鳴く んじゃないかな」 稲「……、はい…」 万「江戸で認められりゃ、お父っつぁん、おっ母さんだって、大喜びさ。だって、今 だって、お稲さんの三味線を後ろで涙を拭きながら聞いてたんだから。もっともっ と大きな親孝行ができるよ」 稲「お師匠さん。あたし、直ぐにでも江戸へ飛んで行けるものなら行きたいんです。 でも、あたしはここの一人娘…。あたしがいないと、お父っつぁん、おっ母さんが ……」 万「そうか……、婿をとる身か…。お父っつぁん、おっ母さんが手放すわけないね…。 じゃ、江戸は無理か……。悔しいなァ…、あたしがもう少し悪だったら、お稲さん をかっつぁらって行くね。お稲さんの三味線をこのままここで埋めてしまうのは、 もったいないもの……。 じゃァ、お稲さんの江戸行きは諦めて、あたし一人でもお稲さんの三味線を数多 く聞くようにするかな。 あたしゃ、これから精出して月に一度ぐらいはこっちィ回るようにしよう。なん とか仕事をこしらえてね。そうしよう。そうすりゃァ、お稲さんに会えるし、また 三味線も聞かせてもらえるし。ハハハ、それで我慢するかな」 稲「……、あの…、お師匠さんのほうから、来てくださるの…?」 万「ああ、喜んで飛んできますよ。その代わり、また、三味線を聞かせておくれ。で、 また、打たしてもらいたいな」 稲「ほんと…?」 万「また、泣いてるね…」 稲「だって……、お師匠さんが……」 万「さァさァ、泣くお酒はいけませんよ。お通夜じゃないんだから」 稲「本当にしていいんですか…?」 万「嘘じゃない、本当さァ。じゃァ、約束のゲンマンをしよう。どうだい?」 稲「{恥ずかしそうに指を出しながら}はい…」 万「{指を絡めて}さ、ほら、『ゲンマン、ゲンマン』」 稲「ほんと? 来てくださるのね?」 万「ああ、来ますよ。『ゲンマン、ゲンマン、嘘をつくと…』。ほら、お稲さん。黙 ってないで、あとを続けて」 稲「{小声で}針千本…、飲ましますよ…」 万「ハハハ、よしよし。じゃァ、ハハハ{いきなり、腕を掴んで引き寄せる}」 稲「あッ、なにをなさいますッ。いけませんッ、いけませんッ」 この「いけません」という言葉の解釈は、男女の色の道学では永遠のテーマ になってますが、難しいもんですな。 言語学上は「ノー」ということなんですが、文学的な解釈では必ずしも「ノ ー」ではない。「イエス」の場合もありうるんですね。 よしなァの 低いは少し できかかり という川柳がありますが、女が男を本当に拒否をするんだったら、「やめて よ!」と怒鳴ればすむわけですから。 ですから、この「いけません」も、回りに気を遣って聞こえないように低く、 低く言う「いけません。バカ」なんてぇのは、クロレッツで。それに、まだま だ早い新幹線で、望み(のぞみ)がありますよ。 ところが、隣り近所へ伝えるような「いけません〜ったら!」なんてぇのは、 もう、新幹線も絶望ですね。 このお稲さんの「いけません」という調子がよかったのか、その場であとの 晩の約束をしたようで。 その晩、二人は怪しげな喜びの夢を結びます。 翌朝、お稲さんはほとんど、つきっきりの給仕。恥ずかしさがはち切れんば かりで。 稲「お師匠さん…、きっとですよ」 万「ああ、月に一度は必ず来るからね」 稲「来なかったら、承知しませんからねッ。{万蔵の膝を抓る}」 万「痛いなァ……」 この、抓るってぇのもいいもんですね。愛の表現の一つですよ。 親指と人さし指の二本でキュッと、痛いような、くすぐったいような…。そ のときの目は必ず色っぽく微笑んでいて……。 あたしも、死ぬまでに一度でいいからしてもらいたいですな。 この間、「五本の指で抓られたよ」って、泣いて喜んでいた噺家がいました がね。 「どういうときに、五本で抓られたんだ?」って訊いたら、飲み屋のママさん に「もう二度と来ないでよ!」って、やられたそうで。 こりゃ、愛情じゃありませんよ。憎悪ですね。指の数が多ければいいという もんじゃありませんな。 万「とりあえず、来月の末にはこっちへ来ますから、あとのことは、また、そのとき に話をしましょう」 稲「お待ちしてます」 万「あいよ」 稲「お師匠さんが来ないからといって、あたしのほうから出向くというわけにはいか ないのです。お父っつぁん、おっ母さんが…」 万「わかっているよ。あんないいふた親を泣かしちゃいけないもの。もし、できるこ となら、あたしはズーッとここにいたいくらいだ」 稲「{涙を拭きながら}できるなら、このまま江戸へ、付いて行きたい……」 名残り尽きない二人は、離れ難さを引きずりながら下へ降ります。 あとは並みの旅人と同じように、宿の人たちの「お気を付けなすって」の声 に送られて、吉住万蔵はこの扇屋を立ちました。 江戸へ戻りました、この万蔵。 芝居やら、おさらいやらに追われて、忙しいのなんの。 そのうちに付き合いで、築地の居留地に新島原という廓がありまして、そこ へ通うようになりました。 これは明治になってから出来ました、外人向けの廓で。京都の廓の島原の向 こうを張って、新島原と名付けられました。幕末から明治にかけて、居留地の 廓は横浜にもありました。有吉佐和子の原作の芝居で文学座の米櫃になってま す〔振るアメリカに袖は濡らさじ〕という芝居の舞台になっているのが、横浜 の居留地で。 万蔵は、この新島原の梅ヶ枝小路の杉本という店の花遊という女に夢中にな って、通い続けた。 花遊の許から方々の仕事場へ行くようになり、もう熊谷のお稲のことはケロ ッと忘れ、早いもんで、半年過ぎた。 小さな一座で上州を回りまして、帰りは高崎から万蔵一人で、昼過ぎ、熊谷 へ入ってきた。 万「半年ほど前、ここでは、いい思いをさせてもらったんだ…。どうしているだろう …、ちょいと寄ってみるか」 と、扇屋の前へ来てみると、簾が下がってまして、忌中の札……。 万「あ…、なんだろう……」 ちょうど斜向かいに小松屋という宿があった。 そこへ草鞋を脱いで、二階へ通された。 一っ風呂浴びて、部屋へ戻ってくると、酒の支度も出来ている。飯盛り女を 相手に一杯、始めました。 女「お客さま。忘れてました。宿帳をお願いします」 万「ああ、あとで書いておこう。それより、前の宿、なんかあったのかい?」 女「はい…、亡くなりました…」 万「年寄りでも、いたのかい?」 女「いいえ」 万「お父っつぁん、おっ母さん…?」 女「そうじゃないんです」 万「じゃあ、誰なんだい?」 女「一人娘が亡くなりまして」 万「え? 一人娘って、あの…」 女「お稲さんです。ご存知なんですか?」 万「いや、名前までは知らないが、噂に聞いていたんだ、器量よしの…、娘さんだっ て…」 女「そうなんです、熊谷小町と言われた人ですから」 万「患ってたのかい?」 女「…、いえ…、そうじゃないんです…」 万「じゃ、どういうことなんだい?」 女「…、大きな声じゃ言えないんですけど…」 万「じゃ、小さな声でいいから、聞かせておくれ」 女「お稲さん、身重だったんです」 万「えッ…。亭主はいなかったんだろう?」 女「もちろんです、いませんでした」 万「それが身ごもったてぇのは…。人知れず、会っていた男がいたのかい?」 女「さァ、そこんところはよくわからないんですけど、ひと月ほど前から、親御さん が見て、『どうも、ただの体ではない』ということで、お稲さんに問いただしたと ころ、『そのうちに…、そのうちに…』と言うばかり。 それから、日も経って、誰が見たってわかるようなお腹になってきまして、親御 さんのほうから折れて、『このまま、子どもが生まれりゃ、ててなし子。そんなこ とになったら、この土地にはいられない。相手の名を言っておくれ。一緒にさせて やろう。養子に貰ってやろう。それができなかったら、身代を分けて向こうに嫁に やってもいい』と、こうまで言ったんですから」 万「そばで聞いてたのかい」 女「いえ、そんなことできますか、立ち聞きするだなんて」 万「だって、いやに詳しいじゃないか」 女「いえね、『そうじゃないか』って言ってた人がいましてね。それが口の堅い人な んですって。それを聞いたのが、この宿のお鍋さんで、それがまた、とても口の堅 い人なんですよ。そのお鍋さんが『あんたは口が堅いから』って、あたしにだけ教 えてくれたんです。口の堅い人伝にきてますから、確かですよ、この話は」 万「あたしも口は堅いから、安心おし」 女「はい、そう思いまして話してんですよ、あたしも」 万「で…、相手の名前は…?」 女「それが…、やはり言わなかったんです」 万「付き合ってた男の数が多いから、自分でもわからないんじゃないかな」 女「そんなことありません。お稲さんはおとなしい人ですが、しっかりした娘さんで すから、男なら誰でもいいだなんて、そんな…」 万「お前さんとは違うかい?」 女「変なこと言わないでくださいッ」 万「いや、これは冗談、冗談。怒っちゃいけないよ。話を続けておくれ。で、どうし たんだい?」 女「それが…、昨日なんです」 万「うん。どうかしたのかい?」 女「親類縁者が集まりまして、『今日はどうしても、相手の名前を言ってもらおう』 と大勢で詰め寄ったそうです。 お稲さんも、もうこれまでと思ったんでしょう。『厠ィ行かせて』と言って席を 立って、そのまま戻って来なかったんです。あたしはびっくりしました」 万「そばにいたのかい?」 女「いませんよ、親類じゃないんですから」 万「じゃ、驚いたってぇのは?」 女「戻って来ないわけですよ、井戸ィ身を投げてしまったんですから」 万「井戸へ…! で、相手の名前は?」 女「{首を振る}」 万「言わずにかい?」 女「はい……」 万「そうか…、言わなかったか…」 女「ところが、書き置きがあったそうです」 万「書き置き…? それを早くお言いよ。なんて書いてあったんだい?」 女「それが妙な書き置きでして、普通でしたら、『先立つご不孝』とか『死んでお詫 びを』とか書くもんでしょうが、それがないんです」 万「白紙だったのかい?」 女「名前だけ書いてあったそうです」 万「名前だけ…? なんと…?」 女「吉住万蔵と、書いてあったそうです」 万「……、やっぱり…」 女「なんですか?」 万「いや、なんでもない」 女「その名前なんですけど、半年ほど前の宿帳にその名前があった、ということがわ かりましてね。江戸の鳴物師で、吉住万蔵ってぇます。 お稲さんが『そのうちに、そのうちに』と言ったのは、そのうちにその男がやっ てくるという約束になっていたんでしょう、きっと。 ところが、男はそれを忘れたのか、裏切ったのか、やって来ないもんですから、 とうとう、こういうことになっちまったんです。 でも、その万蔵てぇやつはいづれ来ますよ。悪いやつは現場に戻るっていいます から、きっと来ます。お稲さんの魂魄がここィ呼び寄せますよ。 ですから、万蔵がこの辺をうろうろしていたら、あたしはとっ捕まえて、そいつ の顔を両手の指で引っ掻いてやろうと思って、昨夜、切ろうと思った爪ェ切るのを やめたんです」 万「お前さんは、お稲さんより怖い女だね」 女「あたしはやりますからね、必ずッ」 万「万蔵って男、よほど面の皮を厚くしておかないと、血だらけになりそうだな。 {外へ目をやる}表がばかに賑やかになったね」 女「はい。ジャンポンです」 万「なんだい、そのジャンポンというのは?」 女「江戸では、お弔いというんでしょう? ここではジャンポンといいます」 万「おお、お弔いか…」 女「今、家から出るところです」 万「見せてもらって、いいかな?」 女「どうぞ、どうぞ。薦めるのも変ですが、罰が当たるもんでもありませんし」 万「じゃ、二階から拝ませてもらいましょう」 女「あ、それから、お客さま。宿帳を」 万「ああ、あとで付けておくから」 障子を開けて廊下へ出まして、二階の手すりから下を見ていると、ちょうど ジャンポンの行列が出て来たところで。 菩提寺の住職のあとに、家の者、親類、近所の衆が続きます。 万「{手を合わせて}お稲さん……。悪いが、あたしは一夜の夢のつもりでいたから、 半ば忘れかけていたんだ…。お稲さんは、その気になって待っていたんだね…。で も、死ぬことはなかったのに……。 こっちは男の一人旅だった…。まして、芸人だ。勝手なようだが、江戸へ帰り、 他に増花がありゃ、そっちへ行っちまうよ…。 お稲さんに悪気は少しもなかったんだよ…。だから、許しておくれな…。南無阿 弥陀仏…、南無阿弥陀仏…」 万蔵は拝みながら、ひょいっと住職の顔を見た。 と、向こうも顔を上げて、二階の万蔵を見た。 目と目が、カチーンとぶつかったようで、 万「あの住職の目…、恐ろしい目をしている…。お稲さんがあたしを恨むと、ああい う目になるのかもしれない…。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 寒気がしてきたんで、布団を敷かせて、急いで宿帳をつけると、そのまんま ゴロッと横になって、すぐにトロトロッと寝込んだ。 やがて、陽が落ちて、辺りが暗くなる頃、目を覚ましましたが、あと、一向 に寝付かれず、頭の中はお稲さんの顔が渦を巻いていくつもいくつも飛び交っ て、寝返りばかり打つ始末。 四つ半(23時)の鐘が、ボーン……。 女「あのゥ、お客様…。ごめんください」 万「あい、なんだい?」 女「お休みのところ、あいすいません。お使いの小僧さんが…」 万「使い…? あたしは熊谷に知る辺はないんだがね」 女「あのゥ、それが…、お寺の小僧さんなんです」 万「寺の小僧…? 人違いじゃないかい」 女「光龍寺という、昼間のジャンポンのお寺さんなんです」 万「ああ、あたしは確かにそのジャンポンは見ましたが…、それが…?」 女「その光龍寺の住職さまのおっしゃるには、二階からジャンポンを拝んでいた人に 会って話がしたい、ということです」 万「あたしに話がある? なんだろうな…」 女「なにか縁ある者に違いないと、おっしゃったそうで」 万「坊主はすぐそういうことを言うんだよ。縁なんぞあるもんか。あたしは、万蔵な んて男は知らないよ。だいいち、あたしは宿帳にも書いたろう、蒲団屋千兵衛てん だから」 女「じゃ、お断りいたしますか。住職の言うには『これ以上、死人を増やしたくない』 ということですが…」 万「誰が死ぬんだい?」 女「さァーー」 万「わかった、わかった。じゃァ、すぐ支度をするから、その使いを待たしておくれ」 女「はい」 小僧「{寺へ戻ってきて}和尚さま。お連れ申しました」 和尚「うん、ご苦労。お前は下がりなさい。かまわんから、先へ休みなさい」 小「はい。では、休ませていただきます」 和「うん。 {万蔵に}さァ、どうぞ、お入りくだされ。夜分、お呼び出だしいたしました、無 礼の段、お許しくだされ」 万「話とは、どのようなことで」 和「あなたは扇屋の二階から、ジャンポンをご覧になっておりましたな」 万「は…」 和「そして、拝んでおりましたな」 万「は…」 和「わしの目を見たはずじゃ」 万「は…」 和「さて、率直に伺いましょう。あなたは江戸の鳴物師、吉住万蔵とおっしゃいませ んかな?」 万「いえ、あたしは、蒲団屋の千兵衛と申します」 和「ほう、万蔵殿ではない…?」 万「はい……」 和「これはしたり。拙僧の目にも狂いが生じてきたか……。あなたの目を見たとき、 亡くなったお稲さんの知る辺の者と、見たのじゃが、違ぅておったか…。 いや、すまんことをしでかしたもんじゃ。わしとしたことが…。 お許しくだされ。宿まで小僧を付けて、お送り申そう」 万「いえ。一人で帰れますので、それには及びません」 和「それにしても、吉住万蔵。今、どこで何をしていることやら…。余命は幾ばくも ないはず。三日後には死に至るであろうにのう」 万「……、和尚さま。つかぬことを伺いますが…、その万蔵とやら、三日後には死に ますので?」 和「さよう」 万「それは…、本当でしょうか?」 和「さよう。ジャンポンの間中、わしには浮かばれぬお稲さんの声が聞こえてきおっ た」 万「……、なんと、申しました…?」 和「吉住万蔵と、名前のみを書き残しただけの仏。この四つの文字の中には、言い尽 くせぬ、書き残せぬ、その恨みが込められておる。 わしの聞いたその声も『吉住万蔵』と、名前を叫ぶのみであった。それだけに恨 みは量り知れぬものがあろう。 以前にも、このようなジャンポンを出したことがある。その折の男は三日目には とうとう果てた……。恐ろしいものよ……。 この度の万蔵という男も、三日の内には取り殺されるであろう。 お引き止めをしてしまったようで……。さ、お戻りくだされ」 万「和尚さま。お助けください。あたくし、嘘をついておりました。あたくしが、そ の、吉住万蔵でございますッ」 和「……、うん、よう申された」 万「申し訳ございません。あたくし、扇屋に泊まりまして、お稲さんと、なに…、い たしました…。で、またすぐに来るようなことを申しました。まさか、このような ことになるとは……。 お稲さんを騙すつもりは毛頭もございませんでした。ついつい、仕事が忙しくて、 半年後になってしまいました。本当でございます。 まさか…、お稲さんが…、身を投げるとは…。 お助けくださいましッ」 和「うん。お助け申そう。それについて、わしの言う通りに勤めを果たしてもらいた いのじゃが、あなたにできますかな?」 万「なんでもいたします」 和「うん。ならば、わしに着いて来なされ」 万「はい」 庫裏を出まして、途中、和尚は物置から米の空き俵を引っ張り出して、本堂 の裏手の墓場ィやって来た。 お稲さんが埋められたところの土がこんもりと高くなっている。周りの土と は色が違っていて、いかにも生々しい。 和尚は、その前に、空き俵を敷きます。 和「さ、これへ、お座りなさい。 あなたの目の前のこの土の下に、お稲さんは眠っておる。浮かばれぬままにじゃ。 これより、九つ(0時)の鐘が鳴るであろう。それを合図に通夜じゃ。夜の明け るまで続けるのじゃ。夜が明けたら、庫裏ィ戻り、身を清め、粥をすすり、休むの じゃ。これを三晩続けるのじゃ、よいのッ。 その間、口に出せる言葉は、念仏のみじゃ。浮かばれぬ仏があなたを取り殺そう と、出てくるやも知れぬ。たとえ、どのようなことになろうとも、念仏以外の言葉 を口から発してはなりません。 人に会わぬよう、ものを問われぬようになされよ。よいの、わかったの? 念仏 のみじゃ。 その念仏も助かりたい一心の念仏であったならば、それは空念仏。あなたの命は 助かりますまい。仏に詫びる心が、あなたの命を救うのじゃ。よいのゥ。 これより、三日の通夜。よいの? 念仏のみで勤め上げれば、お稲さんも浮かば れることであろう。あなたの命も助かるであろう。ただひたすら、念仏申せ。 さ、ほれ、九つの鐘じゃ」 ゴーーーン。 和尚は庫裏ィ戻ります。 万蔵は一人。墓前に残り、静かに手を合わせます。 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」 満天下の星は、まさに降りそそぐが如く、光を増して、万蔵を照らします。 新仏を迎い入れた目前の土は生々しく盛り上がり、地下から漏れてくるのか、 万蔵のはらわたに凍み込むようなお稲の声…。 {太鼓(ウスドロ)と三味線(道成寺)、流音} 稲「恨めしい〜、吉住万蔵〜、取り殺す〜」 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」 稲「万蔵〜、取り殺す〜」 この声は、一晩中、聞こえてきた。 カアー! カアー! {太鼓(ウスドロ)と三味線(道成寺)、消音} 夜が明けたのか、明烏の声。 万蔵はフラフラになって庫裏ィ戻ってきて、身を清め、粥をすすって横にな ると、たちどころに眠り込んだ。 次の晩。 九つの鐘を合図に、墓前へ。 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」 {太鼓(ウスドロ)と三味線(舌出し三番叟)、流音} 稲「恨めしい〜、吉住万蔵〜、思い知れ〜」 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」 声「万蔵〜、思い知れ〜」 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」 カアー! カアー! {太鼓(ウスドロ)と三味線(舌出し三番叟)、消音} 夜が明けた様子。 しかし、もう一人で立って歩く力も残ってない。這うようにして庫裏へ。 どっからやってきたのか、どっさりの烏が、万蔵の姿を見ながら、まだ、カ アカア、カアカアと騒いでいる。 万蔵は庫裏の中ィ入っても、もう、なにもできません。倒れるように寝ちま った。 いよいよ、三日目の通夜。 残った力を搾り出すようにして、お念仏。 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏…」 {太鼓(ウスドロ)はなく、三味線(鶴亀)と鼓、流音} 稲「あなたは〜、憎い人〜。憎い人〜」 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」 稲「あなたは〜、憎い人〜」 万蔵の一心が通じたものか、お稲さんの言うこと、また、その声も、いくら か柔らかくなってきた。 万「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏…」 カアー! カアー! {三味線(鶴亀)と鼓、消音} 万「助かったァ!」 途端にゴーッという音を立てて降り出した大雨。 遠くの方で、ゴロゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロゴロ! 雷の音。 これが段々と近づいてきたのか、カリカリカリカリ! ピシィー! 落ちたんでしょう、ドスーーーン! というえらい地響き。 和「小僧や。雷が落ちたようじゃの」 小「はい、裏に落ちたようです」 和「かような刻限の雷も、珍しいもんじゃ」 小「あの方が、心配です」 和「うん。見回ってみるか」 小「{裏へやって来て}和尚さま! 人が倒れています!」 和「これは、万蔵殿! 息絶えておるわ。今の雷にやられたのか…」 小「やはり、お稲さんは許さなかったんでしょうか」 和「わからん…」 小「この方、よけいな言葉を口にしたんでしょうか」 和「わからん…」 小「雷が落ちたくらいですから、やはり、お稲さんの怒りが……」 和「それにしても、この万蔵殿のやすらかな顔はどうじゃ。よい顔をしておる」 小「まるで、お稲さんに会って、喜んでいるような顔ですね」 和「そうじゃの」 小「和尚さま。烏があんなに…」 和「どっさりの烏じゃの。どこから来たかの」 小「それに、喜んでいるように、鳴いてます」 和「うん…。なにがそんなに嬉しいのかの」 小「和尚さま。今朝の烏…、いつもと違って、ちょっと妙なんです」 和「どう妙なんだ?」 小「はい。夜の明けないうちに、鳴き出しました」 |
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2000・5・1 UP |