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 古 典 噺 

仏笑噺 圓朝作品


圓窓五百噺 その番外 より

熱 き 思 い

原 作   三遊亭 圓朝
脚色・口演 三遊亭 圓窓
篠 笛    坂本 真理


時      幕末〜明治
場所  蝦夷 東京 海上
 主な登場人物
農家に貰われた娘    嘉代(一七〜一九歳)
幕兵・嘉代の育ての父親  室田信平(四五〜五三歳)
幕兵隊長・嘉代の実の父親  春日左衛門   (三二歳)
大金持ち      畠野庄六   (六二歳)
嘉代の愛人     交島武雄   (二七歳)


     嘉永六年(一八五三)、浦賀沖にペルリ一行のアメリカ船がやってきてか
    ら、日本は騒然となり、勤皇攘夷論が起こりました。
     徳川幕府は圧倒され、十五代将軍の慶喜が政(まつりごと)を朝廷に返還し
    ました。これが大政奉還です。
     しかし、勤皇の薩長の勢いは止まらず、鳥羽伏見の戦いとなりまして、幕
    府方は敗走につぐ敗走。
     京都にいた慶喜は軍艦で江戸へ戻ります。
     京都から西郷隆盛が総督参謀として、江戸へ向かいました。
     江戸の町が火の海となるところを勝海舟らの働きで、慶喜は水戸へ引きこ
    もりまして、戦場にはならず助かりました。
     ところが、徳川譜代の恩顧ある面々は慶喜の行動に承服せず、彰義隊を結
    成して上野の山に立てこもって抵抗をしますが、脆くも崩れ去りました。
     奥羽北陸でも戦はありましたが、勢いづいた官軍に潰されていきます。
     幕府の海軍奉行の榎本釜次郎、後の武陽は明治元年、幕府方の兵を集めて、
    北海道の鷲の木浜へ上陸し、五稜郭を本部として蝦夷共和国を宣言いたしま
    す。
     ここでは有名な新撰組の土方歳三が討ち死にをいたしましたが、土方同様
    に命を賭して官軍の中に突っ込んで討ち死にした者は大勢います。
     しかし、後世まで名前を残した人となると、土方はじめわずかな人数です
    よ。
     後年に本になったり芸能で扱われたり、入学や入社の試験に出たりするか
    ら、有名になったということも言えなくもないですね。


     お話は、明治二年五月十一日、五稜郭から離れた神山口に陣取って官軍を
    迎え討とうと味方の兵に檄をとばしておりましたのが、幕兵の隊長、春日左
    衛門、三十二歳。
     先陣は敗れ、ここ後方の陣に残る兵士もわずか二十人ほど。
     しかし、怯まず、小高い丘の上の岩陰に集まって一息ついて、「再び敵方
    へ向かおう」と作戦を練り直し始めた。
春日「あいや、各々方(おのおのがた)、拙者の話を聞いてくだされ」
兵一「どのような策でござるか」
春日「お互いのその痛手傷口を見れば、この度の戦がどれほど激しいものか……。よ
  くぞここまで戦ってくだすったのぅ」
兵二「隊長……、戦はこれからです」
兵三「そうです。負けたわけではござらん」
春日「いや、各々方。家のため、徳川の御ためとは言いながら、身命(しんみょう)
  を擲(なげう)ってかかる日本の果て蝦夷まできて、艱難辛苦の甲斐もなく、運
  拙(うんつたな)くも……」
兵四「隊長、我々はッ」
春日「いや、各々方が言わんとすることはわかっておる。
   しかし、冷静に勝負を判ずるのも部将の務めじゃ。この分では到底、勝利は覚
  束(おぼつ)かん。今日、明日にも官軍は五稜郭に迫る勢いなれば、我々の命も旦
  夕(たんせき)に迫っておる。
   残された道は、兵糧攻めにあって虚しく飢え死にするか、降伏して縄目の恥辱
  を受けるか、あるいは華々しく討って出て、潔く討ち死にをいたすか。この三つ
  である。
   各々方、いかが致す。腹蔵のないところを承りたい。
  {見回しながら}うん…、うん…。さよう。言葉もないであろう。もっともじゃ。
  泣くのもよかろう。思いっきり泣きなさい。
   この負け戦、恥ずかしいことではない。時代じゃ、時の流れじゃ。正義も悪も
  ない。官軍も徳川軍も時の流に身を投じただけなのじゃ」
楢崎「春日隊長ッ」
春日「おお、楢崎。この中では、おぬしは一番の若者。これまでよく戦ったのぅ」
楢崎「諸先輩をさておき、ものも言いにくいのですが……」
春日「いや、構わん。なんなりと申せ」
楢崎「隊長。かかる小勢で日本中の兵と戦うというのも小気味のよいものでござるが、
  策を労して寄せ来る大軍を一人、二人と討ったところで虚しいもの。それよりも
  堂々とこちらから討って出て、討ち死にをいたしたほうが華かと思いますが」
老兵「うう〜っ。この若造に先に言われて悔しいわい。わしも老体に鞭打って突っ込
  みまする」
兵一「わたくしもッ」
兵二「わしもッ」
兵三「そうじゃ、決めたッ」
春日「うん、うん。かたじけない。一同、お勇ましいお言葉。ならば機を見て一丸と
  なって華々しく討って出ましょう。それまで各々方の命、この春日にお預け願い
  たい。よろしいか」
全員「おお!!」
春日「うん。かたじけない。
   そこで、室田殿。ここへ」
室田「はっ」
春日「お聞きのとおりじゃ」
室田「拙者も華々しく」
春日「いや、待った。室田殿は一人、人知れずここを落ち延びていただきたい」
室田「なんですと?!」
春日「人は死して名を残す、虎は死して皮をとどむ、と申すの。今ここで皆が討ち死
  にして七重原の草の露に消えたとして、誰がその名を江戸表の両親や妻子に伝え
  るのじゃ。その役目を室田殿にお願いをしたい」
室田「なにかと思えば……、そのようなことは拙者におっしゃるべきことではありま
  すまい。
   この室田信平、本年四十五歳。先の常陸(ひたち)の戦で有馬の兵に囲まれた折、
  運良く生き延びました。本来、そこで命終えたこの体。そろそろ潮時、ここで死
  なせてもらいたい。
   その役はもっと若い、生い先(おいさき)の長い者に仰せ付けられよ。
   室田は年甲斐もなく命を惜しんで戦地から逃げ出してきたと言われては、末代
  までの恥辱でござる」
春日「うん、貴殿のおっしゃることは至極道理。しかし、すっかり官軍に囲まれたか
  かる修羅場を潜り抜けるには若者では覚束ないのじゃ。ここだけではない。江戸
  へ至るどの道筋にも落ち武者を待ち伏せする官軍はおろう。それには、百戦錬磨
  の貴殿でなければ切り抜けられないはずじゃ。
   ここにとどまって討ち死にするのも大事な命、切り抜けて江戸へ向かうのも大
  切な命。各々方の命を預かったこの春日が貴殿に頼むのは、各々方の腹の内を成
  り代わって申すも同然なのじゃ。{頭を下げて}この通り、この通りじゃ」
兵五「お頼み申します、室田殿ッ」
兵六「承知してくだされッ」
室田「……、各々方、お手をお上げくだされ。かくまでにお頼みとあれば、お引き受
  けいたしましょう」
春日「よくぞ聞き届けてくだされた。安心して討ち果てることができます。
  {見渡して}各々方、遺言や形見があらば、室田殿になんなりともお頼みなされ
  よ」
    {篠笛 1。兵の一人、坂本の吹く篠笛の音(晩鐘)が流れ出す}
兵一「では、お願いします。父から『お互いに骨になって会おうぞ』と励まされまし
  た。『仰せの如く勇ましく打ち果てました』とお伝えくださいまし。
  それと、母です……。母は病弱でございます。母の見知っている巾着、お届けく
  ださい。中の金は室田さん、路銀としてお使いくださいまし」
室田「承知いたした」
兵二「わたしは幼少の折、両親を失い、叔母に育てられました。出立(しゅったつ)の
  折、いただいた匕首(あいくち)と懐中物(かいちゅうもの)、これを形見として」
兵三「拙者は折々、辞世のつもりで詠んだ歌をしたためておきました。これを兄に…
  …」
兵四「拙者は上野の山の戦に敗北して逃げ場を失い、数奇屋町(すきやまち)の小花
 (こはな)という芸者の家の二階に隠れておったが、詮議が厳しくなって、その小
  花はすぐにここから逃げるようにと、三十両という大金を工面してくれた。
   そのおかげをもって今日まで存命でいられた次第。討ち果てる者には無用の金。
  五十両にして返したい」
室田「とき折、櫛を取り出しては見入っておられましたな。それはその女からの」
兵四「見られましたか。恥ずかしながら……。これでござる。この郡山剛蔵、櫛はし
  かと懐に入れて突撃いたします。小花がそばにいてくれるようで。いや、これは
  惚気ではない、本心でござる」
室田「よい話じゃ。その櫛のことも伝えましょう」
春日「{見渡して}各々方、遺言や形見はお頼みしましたかな。あとで住まいを書付
  けに記して、室田殿にお渡しなさい。
   坂本。そのほうも室田殿に頼みなさい。{笛、やむ}ああ、そのほう身寄り頼
  りはなかったな……。その笛は…、知人にでも…? いいか…、そうか……、郡
  山の櫛同様しかと身に付けて突撃するか。うん、そうか……。では、あの世でも
  存分に聞かせてもらうぞ。
   では、室田殿。わしからじゃ。ここに金子が三百金ある。まず、これをそのほ
  うに納めてもらいたい。そして、拙者の話を聞いてもらいたい」
室田「そのように大金をいただきましても……」
春日「そこで、改めて拙者からの頼み、二つある。その一つじゃが、各々方の遺族を
  回り、遺言、形見を届けた、そのあとじゃ。貴殿の了見なら武士として腹を切り、
  我々のあとを追うであろう」
室田「……」
春日「顔にそう書いてある」
室田「いや」
春日「しかし、それはおやめなさい」
室田「なぜでござる」
春日「各々方もしかと聞いてもらいたい。この春日は各々方の命を預かりました。こ
  の室田殿の命も預かりました。
   室田殿。江戸まで辿り着き、使命をまっとうしたならば、もう武士を捨てたほ
  うがよい。時代じゃ、時の流れじゃ。町人におなりなさい。三百両から元手を出
  し商いをなさい」
室田「この室田が町人に?」
春日「さよう。室田殿の命は拙者がずぅっと預からせていただきます。貴殿は勝手に
  死んではなりませんぞ。よろしいか。ここで討ち果てる者の分まで長生きをなさ
  れよ。よいのぅ。みなも同じ思いじゃ。
  {一同に}のう」
全員「おお!」
兵一「必ず江戸へ戻ってくれッ」
兵二「このみんなの分まで長生きしてくれッ」
室田「は、わかりました」
春日「うん。二つ目の頼みじゃ。
   人生の最期となると、妙に若い頃のしくじりが思い出されての。二十一の折、
  喜代という腰元と割りなき仲になっての。しかし、父の逆鱗(げきりん)に触れ、
  拙者は押し込めの身、喜代は実家へ下げられてしまった。
   ところが、喜代が懐妊となっておって、まもなく女子を出産した。しかし、産
  後の肥立ちが悪く喜代は死去した。やむなく、子は東葛西の青戸村の国五郎とい
  う百姓へやってしまったようじゃ。
   その後、ことに紛れて一度も尋ねることもなく、拙者はここで果てることにな
  る。
   今になって、ときどき夢を見る。顔も知らぬ娘の『父上、父上』の声に目を覚
  ますことがある。
   世が世なら旗本の娘で乳母や腰元にかしづかれておろうに……。辺鄙な農家で
  苦労しているであろう……。無慈悲な父親と恨んでおろう……。
  室田殿。各々方の遺族を尋ね、葛西へ回るのは一番最後でよろしい。国五郎に会
  ってくだされ。娘は十か十一になっておるはず。娘を引き取って成人になるまで
  世話を願いたいのじゃ。その費用はこの三百金から使ってもらいたい。
   これは拙者の髷(もとどり)。娘へ形見としてやってくだされ。この匕首は貴殿
  へ進呈いたそう」
室田「しかと承知いたしました」 
     折から遠くのほうで進軍ラッパ。
     室田は急いでなりを変えました。厚ぼったい手織り縞の筒袖。幅の狭い帯
    を二重に回してチョッキリ結び。尻を端折って草鞋を履きました。頭は白髪
    の多いほうなので、腰を曲げて細い竹の杖をついたところは、誰がどう見て
    も百姓姿。
室田「各々方、さらばでござる」
   {篠笛 2。音(湖北)流れる}
     これから命を捨てる者が二十人余り。永らえる者が一人。手を握り合う、
    肩を叩き合う、抱き合う、小さな涙声で名残りを惜しみます。
     本当に江戸まで生きながらえて行けるのか……。とりあえず、六里はあろ
    うか、函館をめざします。
     坂本の吹く篠笛は、信頼した人のあとを追う子犬のように……、いつまで
    も、どこまでも付いてきて、離れませんでした。


     明治二年六月。{篠笛、消えるようにやむ}
     室田は何度か命を落とすところを切り抜けて、やっとの思いで函館港を出
    帆して、無事に横浜へ着きました。
     すぐに東京に入って、同僚の約束を果たすべく、遺族を訪ねて回り、遺言、
    形見を届けましたが、居所のわからない者も多く、苦心惨憺しております。
     その間、春日隊長からいただいた三百両の内から元手を出して、商いを始
    めました。
     前橋や高崎辺りから生糸を横浜の外国商社へ売り込み、利益を得ましたの
    で、築地二丁目にちょいとした住居を構えるようにもなりました。
     その頃には、人からの助けもあったんでしょう、やっと、すべての遺族を
    探し回ったので、いよいよ最後の遺族へ向かおうと決心をいたしました。
     その年の十一月八日。
     国五郎に会い、これまでの養育費という名目で二十両払い、十一歳になる
    春日の娘を引き取り、築地の住まいへ連れてきました。
     名前は嘉代。
    「どうせ田舎育ちだから」と思っておりましたが、これが、なんと、卵を剥
    (む)いたようなきれいな顔立ちで、立ち居振る舞いがしとやかで、子供に似
    合わず物静か。まさに、旗本のお嬢さまの品格がありますから、びっくりし
    ました。
     室田信平は我が子の如く可愛がりました。嘉代も「お父さま、お父さま」
    と言ってなついてきました。
     室田にとっては嘉代がいることが自慢でもあり、誇りでもあるという、熱
    の入れよう。
     学校へ通わします。試験の度に成績があがりますので、もう夢中です。
     琴や三味線を習わせると、糸の音締(ねじめ)もいいし、声もいい。茶の湯
    や生け花を教えるとすぐに覚える。歌俳諧(うたはいかい)はたちまちにして
    テニヲハが合うという。


     それに年頃になるに従って、ますます美しくなりました。
     十六の歳になったときには、その頃の例えに「白牡丹を電気灯で見る」と
    言われるほど、とにかくいい器量になっていました。
     性格も誠実さに溢れていまして、室田に対しても深く感謝して、「大人に
    なって、この恩返しをしたい」と心がけておりますから、人間を健気にも見
    せます。
     十七歳になったときには、世間の評判も高く、寄ると触ると嘉代の噂ばか
    り。
     それとは逆に、このところ室田の様子が可変しい。毎晩、酒を飲んで帰っ
    てくると、嘉代を前にしてまた飲み始めるという。これが、もう、一月近く
    続いております。
嘉代「お父さま。今晩はこれでおつもりにいたしましょう。毎晩のことですから、お
  体に毒でございますよ」
室田「わかっておる。わかっておるが……、飲まずにはいられぬのじゃ」
嘉代「なぜです、お父さま?」
室田「そのお父さまはよさんかッ」
嘉代「まあ、怖い。お父さまだから、お父さまと申し上げました」
室田「もう、言わんでくれ」
嘉代「じゃ、なんと申したらよろしいの?」
室田「……、なんでもよい。お父さまだけは言わんでもらいたい」
嘉代「変なお父さま」
室田「よせと言っておるッ」
嘉代「……」
室田「ああ、悪かった……、悪かった……、許してくれ、お嘉代さん……」
嘉代「お嘉代さんだなんて、おっしゃらないでください。いつものように嘉代と」
室田「いや、お嘉代さんだ」
嘉代「嘉代とおっしゃってください。変ですわ、お父……、変ですよ」
室田「変にもなろう……。
   何度も聞かされて耳にタコであろうが、五稜郭ではこのわしが神山口を抜け出
  して、途中、官軍に見付かり一行庵(いちぎょうあん)に逃げ込んで助けてもらっ
  た。その折、考えたのじゃ。もし、この先、命を落としたら、遺言、形見も届け
  られない。せめて、隊長の頭髪だけでもと半分をその寺に葬ってもらった。
   運良く、江戸に着いた。遺族への面会も叶った。隊長の頭髪もここへ届けるこ
  とができた。しかし、役目を果たすと、寂しさが一層募ってのぅ……。世の中は
  派手に変わっていくが、ますます寂しくてのぅ。
   春日隊長の遺言通り、そなたを預かったのは十一であったのぅ。わしが四十五
  を超えた年じゃった。
   あれから『お一人ではご不自由でしょう』と縁談をすすめる者もいたが、『娘
  がおるので』と断わってきた。己に『実の娘、実の娘』と言い聞かせて育ててき
  たが、近頃はその娘を見ると、父であることを忘れてしまうのじゃ。恥ずかしい
  ことだが、真の心なのじゃ。
   今では毎晩『お嘉代さん、お嘉代さん』と言うて、跡を追う夢ばかり見ておる。
   まともに顔を見て『嘉代』とはとても言えなくなってきた。
   どうか、この先、嫁に行かんでもらいたい。ずぅっとこのわしのそばにいても
  らいたい。お嘉代さん」
嘉代「お父さまは今晩は相当にお酔いになっています。お休みなさいまし。わたくし
  も休みますから」
室田「もう少しここにいておくれ、お嘉代さん。なんとか商いができたのは春日隊長
  からいただいた三百両のおかげ。ならばこそ、この身代はお嘉代さんのもの。こ
  こにいてこの身代を」
嘉代「お父さまには、いずれよいお嫁さまがいらっしゃるでしょう」
室田「断わるッ、そんなものッ。お嘉代さん。この家から他へ行かないでおくれ。わ
  しが自分の縁談を断わってきたのは、もっとお嘉代さんが欲しいからじゃ」
     嘉代はどうしていいか、わからず、涙を拭きながら、己の部屋に戻りまし
    た。


     こんなことがあって、室田は毎晩のように同じことを繰り返して酒を飲む
    ようになった。
     晩酌の相手をする嘉代は、日に日に心が重くなって沈むばかり。
     嘉代はさっさと寝てしまうようにしたんですが……。
     と、ある明け方、ふと目を覚ますと、枕もとに室田が座って顔をジーッと
    見ている。嘉代は慌てて床から抜け出すと、室田も慌てて部屋を出て行くと
    いう。
     そのうちに、室田は嘉代一人では外へ出さないようになった。必ず自分が
    付いて行くという。
     で、「お父さま」とは言わせません。言うと嘉代をきつく叱ります。自分
    は人前で「お嘉代さん、お嘉代さん」と言っております。
     嘉代の口数も次第に少なくなってくる。心が浮き立ちませんで、鬱々とし
    ておりますから、あれほど明るく笑っていた嘉代が人前でもクスリとも笑わ
    なくなった。
     深いことを知らない世間は「この顔がまたいい」と評判する。


     明治も十年となり、嘉代も十九となりました。
     西郷隆盛を担ぎ出した鹿児島の西南戦争が片付いた秋頃にかけて、コレラ
    が流行りました。
     金持ちは「これは人からうつされる病だから、浮世を離れた別荘へ引きこ
    もって保養でもいたしましょう」てんで、都心からいなくなった。
     畠野庄六もその一人。巣鴨の別荘に一家で引きこもりました。話し相手が
    欲しいてんで、懇意にしている室田信平に声をかけた。
畠野「別荘の離れが空いているから、コレラの薄らぐまでこっちへ来なさいな」
     室田はその誘いに甘えて、嘉代を連れてやって来た。
     一月たって、コレラも薄らいだので、畠野庄六は祝い方々、知人などを招
    いて広間で宴会を開いた。
     もちろん、離れの室田のところにも声がかかりました。
     嘉代は行く気はしなかったが、室田は嘉代をみんなに見せたいという気が
    ある。いやがる嘉代を伴って宴会の広間へ。
     わざと陽気に振舞っている室田。顔を伏せ、あえて人の目を見ないように
    陰気勝ちな嘉代。
     部屋は十五畳、次の間が十畳。それぞれに立派な飾り付けが施されている。
    部屋の至る所に名にし負う書画骨董の類。
     出てきました膳の物。その器も手にするのもちょいとためらってしまうよ
    うな一級品。
     酒は和洋とも一本生の品で、献立は山海の珍味を連ねました。
     それに芳町の誰、柳橋の誰、あるいは新橋数奇屋町の誰と、一粒選(ひと
    つぶえり)にした芸者が、ずらりと取り巻きました。
     来客は夫婦連れもあって十七、八名。折り曲がって座に着いております。
     そこへ室田と嘉代の二人が入ってきた。
客一「おい、室田の連れてきた女、あの美人はなにもんだい?」
客二「室田の家にいるご婦人さ」
客一「室田の孫かい」
客二「さぁ」
客一「娘かい」
客二「さぁ」
客一「女房ではあるまい」
客二「さぁ」
客一「{小指を立てて}これか」
客二「さぁ」
客一「なんでも、さぁだね。まるで、雨が降ってきたようだ」
客二「そのくらい曖昧なんだ」
客一「なんだい、それは」
客二「室田は『お嘉代さん、お嘉代さん』って呼んではいるが、女はうんでもなけれ
  ばすんでもない」
客一「これだ。なにかの手がかりになりそうだな」
客二「そうなんだよ、君。どう呼んでいるかで、つながりはわかるもんだ。『父上』
  とか『お父さま』とか呼んでれば、親子だ。『お師匠さん』なら、師弟のつなが
  りだ。『あなたッ』とくれば、夫婦だ。『あぁた』とくれば、色恋だぁな。どう
  だい、どれがいい?」
客一「なんか売っているようだな」
客二「無人相で生まれたか、一度も笑ったことがないという話だ」
客一「きんぱくや金箔屋の娘でもあるまい?」
客二「なにしろ、あの美人だ。にっこりと笑ったらどうなる?」
客一「国を傾けるだろうな」
客二「そうだろう、すこぶる付きの険呑な女だ。当人もそれを知ってるから、世間を
  騒がせては申し訳ないてんで、我慢して笑わないでいる」
客一「本当かい」
客二「あの女を笑わしたやつは大変だよ。大出世するか、落ちぶれるか。どっちがい
  い」
客一「また始まったね」


畠野「おっ、お清、なんだ? 電報? ……、{読む}
   室田さん。あなたに電報だ」
室田「これは、どうも」
畠野「相変わらず忙しいのぅ」
室田「横浜から至急に来るようにとのこと。仕事のことで、相すいませんが、中座(
  ちゅうざ)をさせていただきます」
畠野「それはそれは、折角、お付き合いくだすったのに」
室田「お嘉代さん。さ、出かけよう」
畠野「おいおい、ご婦人までさらっていくのか。それはないであろう。『あの美人は
  誰なんだ』と噂で持ち切りなんだ。君はいなくてもいいが、その美人はいなくて
  は困る」
客二「そうだ、そうだ。官軍の命令だ」
室田「……、では……、よろしく……{一人で出て行く}」
客三「ようようようッ、見事な撤退!」
客四「世の中面白いのぅ。室田は五稜郭の戦において隊長の命令で一人落ち延びて、
  遺族に遺言、形見をとどけた男だ」
客五「今度は畠野さんの命令で女を残し、一人で落ち延びたか」
客六「横浜の遺族の許へか」
客七「遺言か形見を持たせるんだったな」
客八「『もう二度と戻ってくるな』ってな」
客九「およしなさいよ」
女中「旦那さま。お客さまが。こういう方です{名刺を渡す}」
畠野「おお。交島がきたか。これは思いがけない。こちらへお通し申せ。
  {来た交島を見て}おお、来たか、来たか。嬉しいな。久し振りじゃな。とりあ
  えず、そこにいたまえ。みなに紹介するでな。
  {見回して}みなさん、聞いてもらいたい。紹介する。
   この男は交島武雄といってな、年は、{交島へ}いくつになった? 隠さなく
  てもいいだろう。
   たぶん、二十七、八だ。元は前橋藩でな。なに一つ苦労もなく、{交島に}嘘
  はいってないぞ。
   ほとんど江戸屋敷で育ちおっただけに、ごくわかりのいい粋な人柄でな。学識
  あれど少しも誇らず、嫌味のない品格の正しい温厚な性格で。ご覧の通り色白の
  ところへもってきて、ぽーっと少し赤味を帯びている。{交島へ}もうどっかで
  やってきたか?
   額(ひたい)が少し出ているが、無駄に出ているわけではない。知恵の固まりだ、
  これは。口許が締まって鼻筋が通り、八の字というほどではないが、生意気にう
  っすらと髭を生やしておる。つやつやした髪を正しく掻き分け、フロックコート
  のボタンを外してますが、だらしがないわけじゃない。これは時計の金鎖をお見
  せするためであります。
   どう安く見積もっても、極上の紳士でありま〜す」
交島「過大評価をいただきまして、ありがたき幸せでございます。実は、蝦夷の幌内
  別(ほろないべつ)での事業の件で畠野さまにご相談をと思いまして、横浜へ連絡
  したところ、別荘のほうと承りまして、参上いたしました次第で」
畠野「なに、蝦夷で事業を? うん、まあ、それはあとで聞こう。それより、仲間に
  入って、飲んでおくれ。ちょうど、一人帰ってな。膳が据わったばかりの席が空
  いている。ああ、そこだそこだ」
交島「ここですか、失礼いたします」
     と、言いながら座った交島の顔を間近で見た嘉代。先ほど入り口に座って
    いたところを見たときには気が付かなかったが、なんと若い、なんとあどけ
    ない。嘉代は生まれて初めてでしょう、男の顔をジーッと見てしまった。
     交島は、隣りが女かと軽く思いながら座ったんですが、なんでこんないい
    女がここにいるのか、と疑ってもいいほどの美人。交島も生まれて初めて女
    をジーッと見てしまった。
     この二人のジーッってぇのは周りに大勢人がいますから、時間にしてほん
    の0.何秒でしょう。二人にとっては人生の半分以上を占めたような、目線
    だった。
     嘉代は気にしないように努めれば努めるほど気になる自分にもどかしさを
    覚えながら、交島のほうを見ると、交島も嘉代のほうへ顔を振ってきた。
     目と目がカチーンとあったから、嘉代は心ならずもニコッと笑ってしまっ
    た。
客一「笑ったぞ、あの女。誰だ、笑わないと言ったのは」
客二「いとも簡単に笑ったな。どっか壊れたかな」
客一「玩具じゃないぞ」
客二「昔、唐土の周の幽王の妃(きさき)の褒似(ほうじ)という美人は笑ったこと
  がなかったという」
客一「法事(褒似)とか通夜は笑いにくいもんだぞ」
客二「うまい洒落だな。それがどういうわけか、初めて笑ったとき、『なにかいやな
  ことがあるんじゃないか』とみなが不安になった。案の定、都に大軍が押し寄せ
  てきて周は滅びてしまった。
   だから、ことによると、薩摩から西郷の軍が押し寄せてくるやも」
客一「馬鹿なことを言うなよ。あの戦は収まったんだぞ」
     酒もたけなわになり、それでは御膳(ごぜん)ということで二の膳が出まし
    た。
     そのうちに、「では、お庭を拝見いたしますかな」「拝見がてら、食後の
    運動でもしましょう」という声に二人立ち、四人立ち。
     気が付くと座敷に残っているのは、交島と嘉代の二人っきり。
交島「……、運動しましょうか」
嘉代「はい……」
   二人が並んで築山を回り、檜林を抜けて、紅葉林へ出て、藪際から向こう
  へ行って、雑木の植え込みを回り、秋草の繁ったところへ出た。
   他の連中はそれぞれ運動をしながらも、二人が気になって仕方がない。
客五「おい、二人はあんな所を、見ろ、ああ、動いてる」
客六「そりゃ動くだろうよ。運動だ」
客五「でもな、室田がいなくなると、すぐこれだ。女は怖いよ。室田は知らずに横浜
  くんだりまで。どうなるんだい、二人は。ああ、今夜はあたしは寝られない」
客六「お前さんはさっさとお寝よ。人のことはどうでもいいだろう」
客五「そうはいかないよ。ああ、二人が見えなくなった……」
     二人がやってきた庭の北の隅。低い生垣で囲われている離れのような建物
    がある。
交島「ここに離れがあるのですか」
嘉代「ご覧になります?」
交島「入っていけるのですか」
嘉代「はい。実は畠野さまのご好意でコレラのおさまるまで住まわせていただいてお
  りますの」
交島「あの、先に帰られたというお方は、ご主人?」
嘉代「いいえ……」
交島「と言いますと……」
嘉代「育ての親でございますの。少しばかり変人でございますので、世間さまは取り
  沙汰していろいろ申しますが…」
交島「そうですか……」
嘉代「お茶をお入れいたしますから、お上がりあそばして」
交島「それでは……、お邪魔を……、{篠笛 3。音が流れてくる}篠笛ですかな…
  …?」
嘉代「ご近所に好きな方がおいでなんですね。のべつじゃございませんが、なにかの
  ときにあの音が流れてきますの」
交島「なにかと申しますと?」
嘉代「うまく言えませんが……、こういうときかもしれません……」
交島「……、はぁ……」
 
  {篠笛、余韻をもって終わる}


     明治十年の十月二十日。
     しばらくの間、横浜から各地への出船がありませんでしたが、やっと北海
    道へ定期便が出ることになりました。
     九重丸といいまして、長さ三百尺。百メートル弱でしょう。
     お昼過ぎ、錨を捲いて汽笛を鳴らすと、ドドドドドド、ドブドブドブーン
    と船は走り出します。
     横浜を離れまして、三十里、七十五マイルだそうです。
     東の方は、上総の天神山から名古、館山、鋸山から、犬吠岬を回って行き
    ます。
     昼間のうちは甲板にも人はおりますが、夜分になると、人影もまばら。夜
    露の降りる頃になると、毛布(けっとう)を畳んで、船室へ下りていきます。
     あとは寂として声なく、海面に少し靄(もや)が降り、浮雲がとれて月光が
    煌々(こうこう)と冴え渡ります。
     甲板の艫(とも)へ上がってきた男女二人の上等客。
交島「もう甲板には誰もおらぬ」
嘉代「そうですね」
交島「ずっと部屋にいたから息が詰まったでしょう」
嘉代「窓から風が入ってよい心持ちでございました。それにしてもきれいなお月さま
  」
交島「こうして嘉代さんと二人で月を見られるなんて」
嘉代「今、世の中でこうしてお月さまを見ているのは、武雄さんと嘉代の二人だけか
  しら」
交島「そうだろうね、きっと」
嘉代「あのお月さまを武雄さんと半分っこしたいわ」
交島「半月ずつ持って、合わせて一月。二人はいつも一緒でなければいけないという
  ことだ」
嘉代「いいの? そばにいて」
交島「当然だよ。だから、北海道行きに嘉代さんを誘ったんだ。知る辺もない土地で
  事業を始めるには心からあたしを支えてくれる人が必要なんだ。それが嘉代さん
  なんだ」
嘉代「わたしも親類縁者はございませんが、函館の峠下という所にある一行庵という
  お寺に、神山口で討ち死にをした父の頭髪が葬ってあると、室田が申しておりま
  した。そこへお参りをして墓標(はかじるし)を建てたいと思います」
交島「その室田さんにも黙ってこうして嘉代さんを連れ出して」
嘉代「それは構わないのです。あの家を出るつもりで付いてきたのですから。わたし
  にとってあの人は恩人です。ですが、あのような振る舞いは育ての親ではありま
  せん。あの家にいますと、この先どう生きていけばよいのか、苦しむばかりでご
  ざいますので」
交島「一人で苦しむより、北海道へ行って苦楽を共にしよう」
嘉代「はい」
     嘉代がグゥッと寄り添うと、手が武雄の腕に触れた。
     武雄がその手をきつく握った。
交島「冷たいよ」
嘉代「武雄さんに温めてもらいたいから、冷たいの」
     握った武雄の手の上に嘉代が手を乗せる、と、またその上に武雄が手を重
    ねながら嘉代の顔をジーッと見る。嘉代も嬉しそうに目を見て、にっこりと
    笑った。
     と、甲板の船首(みよし)のほうにはまだ人がいたとみえて、その人が吹く
    のでしょう、
    {篠笛 4。音が流れてくる}
交島「いいなぁ、この音色は」
嘉代「討ち死にを決めたとき、兵の一人が篠笛を吹いたそうです。室田もその笛の音
  を聞きながら、落ち延びたと申しておりました。見送るというより、あとを追っ
  て付いてくるような思いの音だったそうです」
交島「篠笛の音は、あの笛の涙なんだよ、きっと」
嘉代「だから、聞いてると悲しくなるのかしら」
     もう一人いたんでしょう。うまく風に乗せるように追分節が聞こえてきた。
      忍路(おしょろ)高島お呼びもないが
           せめて歌棄(うたすて)磯谷(いそや)まで
      鳥も通わぬ八丈島に やられるこの身はいとわねど
           あとに残せし妻や子は どうして月日を送るだろ
     {篠笛、やむ}
     この文句を耳にした武雄がいとど冴えざえとした月に目をやって、溜息ま
    じりにホロッと一筋の涙……。
     この涙を見た嘉代の頬にも涙が……。
嘉代「武雄さん……、あなたには奥さまやお子さまがございますね」
交島「……」
嘉代「武雄さんの流した涙でわかりました……」
交島「嘉代さんを欺くつもりは毛頭もない。信州の長野に妻子が……。ここ何年と帰
  っておりませんで……、手紙すら出してもいなかった。
   嘉代さんにはいずれ言わなければと思っていて、今日になってしまった。すま
  ない。
   妻には安否を知らせる時節もあるだろうから、しっかりと話をつけるつもりだ。
   それまでしばらく待ってておくれ」
嘉代「嘉代は……、嘉代は…」
     と言いながら、武雄の胸にワーッと泣き崩れた。
嘉代「嘉代は、奥さまと別れてください、と言うつもりはありません。嘉代を選んで
  ください、と言うつもりもありません。ただ……、ただ、奥さまやお子さまがあ
  まりにもかわいそうでございます」
交島「わたしが重々悪かった。しかし、嘉代さんと別れるつもりは断じてない。許し
  てくれ、我慢してくれ」
     武雄は慰めようと嘉代の背中を撫でておりましたが、ふいに嘉代は武雄の
    手を払って、バタバタバタッと駆け出すと、梯子を降りてしまいました。
交島「ああ、とんだことをした。ま、そのうちに落ち着いてくれば、わかってくれる
  だろう」
     一人、海面を見ながら、嘉代は戻ってくるだろうと待ったが、なかなか戻
    ってこない。
     部屋に戻っているのかと思い、入ってみるといません。
     そこかしこを探しましたが、いません。
     ボーイにこのことを言って一緒になって捜してもらいました。乗客たちに
    も手伝ってもらった。上等、中等、下等、食堂から機関室、隅々まで捜しま
    したが、杳(よう)として知れません。
     そのうちにおいおい東が白んで、朝霧が晴れ、差し登る日影がほうぼうを
    明るくした。
     遥か向こうに見えるは、奥州の金華山。
交島「これほど捜しても見付からないのは、よほど思い余って海に身を投じたか、い
  や、そんなことはあるまい。あるいは誤って落ちたか……。どちらにしても、そ
  うは考えたくはない。死んではならない……、死んではいけない……。
  {篠笛 5。音が流れる}
     ああ……、篠笛は涙の流れる音を出すというが……。
    嘉代さんが言っていた。五稜郭の戦で実の父が討ち死にをするとき、誰やら
    が笛を吹いていたと。
     この笛の音は……、嘉代さんの死を見送っているのか……」
     船縁(ふなべり)から身を乗り出すようにして、じっと波のうねりを見てお
    りましたが、内ポケットから手帳を取り出して、中ほどのページを破り、万
    年筆を手にして、「戻ってきておくれ」としたためた。
    {紙を二つに折ると、それに思いを込めるように押し頂くと、海に投げ入れ
    る。
     後方へ流れ去る紙を見送る態で、高座から立って下手へ歩く}
交島「嘉代さ〜ん!!!」
    {甲板から去る態で、袖に入る}
    {篠笛は静かにやむ}
2002・8・14 UP