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落語協会広報誌「ぞろぞろ」に 好評連載中だったものを 改めて書き直しました。 転載許可済み 1999・9・吉日 文責 圓窓 |
[ 平 林 ] |
十年ほど前になるが、あたしのパソコン通信の仲間の一人に、〔ひらりん〕という愛称の人がいた。たぶん、姓は〔平林〕であろうと信じていたら、〔平田〕ということがわかり、少々ばかり拍子抜けの気分を味わったことがあった。 落語の[平林]は、[寿限無]と双璧をなす代表的な前座噺。しかも、子供が登場して、人名を扱うという共通項があるのが面白い。 なにごとも忘れっぽくて字の読めない小僧が、旦那から、 「この文を平林さんへ届けに行ってこい」 と言われて出かけたが、誰の所だか忘れ、宛て名も読めなくて、困って通行人に訊く。訊かれた人たちも字が読めないのに、知ったかぶりをして、てんでに勝手な読み方を教える。 困った小僧は教わった読み方を残らず、大きな声で泣きながら連呼して町中を歩く。 「小僧さん。気がちがったのかい?」 「いいえ。字が違ってます」 ここで、この落語の源泉を記します。〔醒睡笑・編者 安楽庵策伝〕(元和9年(1623)発行)に載っている。 文の上書きに、平林とあり。 通る出家に読ませたれば、 「平林(ひょうりん)か。平林(へいりん)か。平林(たいらりん)か。平林(ひらりん)か。一八十(いちはちじゅう)に林(ぼくぼく)か。それにてなくば、平林(ひょうばやし)か」と、これほど細かに読みてあれども、平林という名字には読み当たらず。 とかく、推には(推量は)、何も(あてに)ならぬものじゃ。 同じ小咄でも〔きのふはけふの物語・作者 不明〕(正保2年(1647)発行)では、こうなる。 上京に平林という人あり。 この人の所へ、田舎より文をことづかる。 この者、ひらばやし、という名を忘れて、人に読ませければ、 「たいらりん」 と、読む。 「そのようなる名ではない」 とて、また、余の人に見せれば、 「これは、ひらりん殿」 と、読みける。 「これでもない」 とて、さる者に見すれば、 「一、八、十、木、木」 と、読む。 「このうちは、外れじ」 とて、あとには、この文を笹の葉に結び付けて、羯鼓(打楽器の一種)を腰につけて、「たいらりんか、ひらりんか、一八十に木木。ひゃぁりゃ、ひゃぁりゃ」と、囃し事をして、やがて、尋ねおうた。 前者の作品は、一人の者に幾多の読み方をさせているが、後者は、複数の者に訊く形をとっている。両者とも小咄としての落ちはないが、後者では現代の[平林]に、より近い作品になっている。 では、現在のあの落ちは、いつ、誰が作ったのか…、あたしは知らない。 ご存知の方、教えて下さい。 あたしは落ちを変えて演っている。 読み方を忘れて困った小僧が、多くの知ったかぶりから教わった間違った読み方を、残らず大きな声で泣きながら連呼して町中を歩く。そのあと、平林本人が小僧を呼び止める場面になる。わけを聞いた本人が、 「ひらばやし、と読んでもらいたいな」 と、小僧が、 「ああ、また、一つ増えちゃった」 と言って、連呼の中に、ひらばやし、までも入れて、怒鳴って歩き出す。 という形の落ちにしているのですが、わかりますか……。 実は、「小僧さん。気がちがったのかい?」という言葉が差別用語ということで放送ではやれなくなったことが遠因にある。あたしだけではなく、幾多の同業者が落ちの改良に挑戦している。 いろんな[平林]を聞き比べてみると、面白い発見があるかもしれない。 あたしは先日、高校演劇を鑑賞しにグローブ座へ行った。本場のグローブ座ではない。高田馬場駅と新大久保駅の間に見えるグローブ座だ。 そこで貰ったチラシで知ったお宅へ電話を入れた。 「新村さんのお宅ですか?」 「違います…」 あたしは、一瞬、<番号を間違って掛けたか>と心で詫びながら、念のために、押したつもりの番号を先方へ言った。 「そうですが…」 「じゃ、〔にいむら〕さんですね」 「違います。〔しんむら〕です」 これには、ギャフン! 固有名詞って、どうしてこうも人を悩ませるのか…。 今度、掛けるときは、[平林]にのっとって、 「〔にいむら〕さんか、〔しんむら〕さんですか」 と、言おう。 |
1999年9月2日 UP |