あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わん TOP
青菜(あおな)/秋の夕暮れ(あきのゆうぐれ)/欠伸指南(あくびしなん)/明烏(あけがらす)/阿漕ヶ浦(あこぎがうら)
/麻暖簾(あさのれん)/明日ありと(あすありと)/愛宕山(あたごやま)/頭山(あたまやま)穴泥(あなどろ)
/あわて朝顔(あわてあさがお)/鮑熨斗(あわびのし)/有馬の秀吉(ありまのひでよし)/按摩の炬燵(あんまのこたつ)
圓窓五百噺ダイジェスト 83 [青菜(あおな)] |
植木屋の熊五郎が出入りの屋敷で仕事のあと、そこの旦那から柳陰(直し)という 酒をふるまわれ、肴に鯉の洗いをいただく。ついで、旦那は「青菜をご馳走しよう」 と、奥さんにそのことを告げる。 すると、奥さんは「鞍馬から牛若丸が出で(いで)まして、その名を九郎判官(く ろうほうがん)」と答える。 旦那は「義経にしなさい」と言ってから、植木屋に「もう菜はないそうだ。失礼し たな」と詫びる。 怪訝に思った植木屋がそのやりとりの意味を訊くと、旦那は「これは我が家の隠し 言葉でお客にはわからないように『菜は食べてしまってない』というのを『その名( 菜)を九郎(食ろう)判官』と洒落たのだ」と言う。 感心した植木屋は家へ帰ってその件を女房に話すと、「そんなこと、あたしだって 出来る」と女房は言う。 そこで、熊五郎はたまたま訪れた友人に酒をふるまって、いよいよ、菜を出すこと になり、女房に「菜を持ってきなさい」と言う。 と、女房は「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官……、義経」と全部 言ってしまった。 熊五郎は仕方なく「じゃぁ、弁慶にしておけ」 (圓窓のひとこと備考) 東京の者にはこの落ちの意味がわからない。女房は「その名を九郎判官」と言って 切り上げるべきなのに「九郎判官、義経」とまで言ってしまったので、熊五郎はその 続きみたいに「弁慶にーー」と言った。それがなぜ落ちになるのかしら、と不審の念 にかられる。 解説をすると、上方ではご馳走になることを「弁慶」というそうだ。これなら、立 派な落ちである。 落ちを理解するには語彙が豊富でなければならない、と言えそうだ。 |
2006・8・26 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 200[秋の夕暮れ(あきのゆうぐれ)] |
八五郎が隠居の所へ遊びに行った。部屋に三夕(さんせき)の歌の掛け軸が掛かっ ている。 八五郎が訊くと、隠居は説明をしてくれた。 「新古今集・巻四に載っている〈秋の夕暮れ〉を詠んだ有名な歌の三首を〈三夕の歌〉 という。 〈心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ〉西行法師の歌。 もののあわれを解さないこの身にも…、しみじみとしたものは少しはわかる…。あ あ…、鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れどき…、という心だ。 〈寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ〉寂蓮法師の歌だ。 寂しさは取り立ててその色というわけでもない…、どことなく寂しい…、桧や杉が 群立つ山の秋の夕暮れ…、という心だ。 〈見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ〉藤原定家の歌だ。 見渡すと、春の花も秋を美しく彩る紅葉もない。苫葺きの海人の仮小屋が点々とす る浦の秋の夕暮れ…、という心だ。 日本人は秋の夕暮れの寂しさが好きなんだな。西行が沢、寂蓮が山、定家が海の秋 の夕暮れを詠んだ」 八五郎はその〈三夕の歌〉を紙に書いてもらって長屋へ帰った。 女房が大の字になって昼寝をしているのを見て、 「心なきかかあに我は寝られけり 死にたくなるぞ秋の夕暮れ……」と替え歌を口ず さんだ。 目を覚ました女房は薪を握って八五郎に向って構えたので、 「恐ろしや寝顔だけではなかりけり薪持つかかあの秋の夕暮れ……」と替え歌。 八五郎は自分で飯の支度を始めたが、 「見渡せば金も着物もなかりけり米櫃までも秋の夕暮れ……」と替え歌。 女房は「なんだい、それは?」とチンプンカンプン。 八五郎は「西行は沢の流れに立って、あわれになった。寂蓮は山に行って道に迷っ て、寂しくなった。定家は海を見て、なんにもねぇてんで、泣いたんだ。まさに、天 下太平の秋の夕暮れよ」 女房「そんなものは家にもあるさ」 八五郎「ある? どこに沢がある、流れがある?」 「質の流れで苦労してらぁな」 「じゃ、山は?」 「借金の山さ」 「じゃ、海は?」 「一緒になるとき、お前さんがあたしに言ったことだよ。『大船に乗った気で付いて きてくれ』って言ったじゃないか」 「ああ、それが海か? 天下泰平の穏やかないい海だろう」 「いいや。波太平(並大抵)じゃなかった」 (圓窓のひとこと備考) ひとっ頃、古文に凝っていた時期があって、メール仲間の知恵を借りて、盛んに落 語化してきた。その一つの創作。〈三夕(さんせき)の歌〉といっても一般的な知名 度はないので、苦しい部分もあるが、自分自身が〈三夕(さんせき)の歌〉を覚えた というだけで楽しかったことを思い出す。 《作者》 圓窓(6) 《演者》 圓窓(6) |
2007.5.19 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 84 [欠伸指南(あくびしなん)] |
町内に欠伸指南所が開設された。熊五郎は「一人では恥ずかしいから、一緒に」と 嫌がる兄貴分の辰蔵と出向いた。師匠から夏の舟遊びの欠伸を教わることになった。 さる旦那が大川の船の中で船頭に話しかけながら、つい退屈まぎれに欠伸をするとい う場面。 「おい、船頭さん。今、なん刻だい…? ああ、そうかい。もう、そうなるかね……。 じゃぁ船を上手へやっておくれよ。これから堀ぃ上がって、一杯やって。帰りには仲 ぃでも行って、乙な新造でも買って遊ぼうか……。船もいいが、一日乗ってると、退 屈で…、退屈で…、あ〜ぁ…{欠伸になる}、ならねぇ…」という台詞なのだ。 熊五郎は師匠の前で何度かやってみるが、なかなかうまく出来ない。師匠も呆れ返 ってしまうほど滅茶苦茶なのである。 連れの辰蔵は呆れ果てて「もうそんな馬鹿ばかしいことはやめろよ。さっきから待 っている俺の身になってみろ。退屈で…、退屈で…、あ〜ぁ…{欠伸になる}、なら ねぇ…」と自然と欠伸が出てしまう。 師匠が「あぁ、お連れさんのほうがご器用だ」 (圓窓のひとこと備考) こんな指南所があったかどうか定かではないが、あっても可変しくはない、という のが落語の世界である。こういう作品がまだ演れるのだから、平成の今日もまだまだ 捨てたもんじゃぁない。 |
2006・8・26 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 86 [明烏(あけがらす)] |
源兵衛と太助という町内の札付きの悪(わる)の二人は、日向屋の主の善兵衛に「 堅物の倅(時次郎)を吉原へ連れ出して柔らかくしておくれ」と頼まれた。 そこで二人は「お稲荷さんのおこもりに行きましょう。お父っつぁんも承知の上で すから」と時次郎を連れて吉原へ行き、誤魔化しながら見世へ上り込む。 時次郎はそこが女郎屋とわかって「先へ帰ります」と駄々をこねる。 が、二人は「大門の所に廓を取り締まる男がいて、三人で上がって一人だけ帰る者 がいると、不審者として捕まえることになっている。若旦那、今、一人で帰ってごら んなさい。大門の所で縛られますよ」と嘘を付いて、思いとどまらせる。 時次郎は止むを得ず、相方の花魁(浦里)の部屋に引き下がった。 翌朝、部屋へ源兵衛と太助の二人がきて「帰りましょう」と言うと、時次郎は「ま だ帰りたくない」と言い出す。 二人はあきれ返って「あっしらは仕事がありますので、先へ帰りますから」 すると、時次郎は、「帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で縛られる」 (圓窓のひとこと備考) この噺は廓噺の名作中の名作。ストーリーは解り易いし、登場人物の配置も見事で あり、仕込みを利かした落ちも素晴らしい。 |
圓窓五百噺ダイジェスト 100 [阿漕ヶ浦(あこぎがうら)] |
伊勢の津へやってきた旅人が、通り掛かかった僧侶に道を尋ねて、「ここは阿漕が 浦じゃ」と教わった。旅人に、ふと思い出したことがある。 先年、想いを寄せたあるお方に初めてお会いできた嬉しさから「またの逢瀬を」と 申し出たとき、そのお方は「逢ふことを阿漕の島に曳く鯛の 度重ならば人も知りな ん」という歌を一首残して立ち去ってしまったのだ。 「もう逢いたくはない」の意はわかるが、中の〈阿漕か浦〉がわからず気になったが、 そのままになってしまった……。あれから何年立っただろう。 ここがその〈阿漕が浦〉か……。しかし、あの歌にこの浦が使われた由来は……? 松の根方で考え込んでいると、うつらうつらと寝てしまった。 冷たい風に目を覚ます。一人の老婆が立っていた。その老婆から阿漕が浦の由来を 聞くことができた。 「昔、伊勢神宮はこの津の辺りにいくつもの神宮領を持っておった。そこへ奉納のた めに里人の漁を禁じていたのじゃ。阿漕という漁師がおった。病床に臥せっている母 親に矢柄という魚が妙薬と聞いて、世間をはばかって夜な夜な漁に出たのじゃ。ある 風の強い日に浜で笠を飛ばされて失くしてしまった。その後、法を犯した阿漕はつい に捕らえられ、「阿漕の印のある笠がなによりの証拠じゃ」と突きつけられ、白状に 及んだ。そして、簀巻きにされて阿漕が浦の沖深くに沈められたのじゃ。その後、こ の恨みが沖で網を引く音となって聞こえてくるようになったのじゃ。 伊勢の海阿漕が浦に引く網も 度重なれば現われにけり 確かに阿漕は度重ねて法を犯した。こんなことから、度重ねること、あつかましい こと、むさぼることを『阿漕、阿漕』と言うようになってしまったが、だが、漁師の 阿漕には親孝行せにゃならんことがあったのじゃ。わかってもらいたい。おわかりか ……? おわかりかな……?」 「はい……、はい……。忠ならんと欲すれば孝ならず……。孝ならんと欲すれば忠な らず……。うーーん……」 旅人はなにやら苦しさから体を前へ倒して、ふと目をあげると、そこに立っている のは最前の僧侶。旅人は夢を見ていたのだ。 僧侶にその話をすると、僧侶は「この地の者はみな同じような夢を見ておる。この 地へ足を入れたお前さんもその夢を見たのじゃろう。夢の中の老婆は阿漕の母親の亡 霊じゃ」 旅人は驚いて「私は西行という歌詠み。〈逢ふことを阿漕の島に曳く鯛の度重なら ば人も知りなん〉の真意がわかりました」と礼を述べる。 僧侶も驚いて「噂によると、あなたが出家なされたのは、白河院のご愛妾で鳥羽院 の中宮であった待賢門院璋子様となにやらあったとか……。歌の道を究めるためとか ……、出家に際し、妻を泣かせ、また、衣の裾に取りついて泣く娘子を縁から蹴落と したそうな……」 西行は「はぁ。良き歌詠みにならんと、つい、人に迷惑をかけてしまいました。そ れだけに処々方々を回り、歌行脚もいたしました。鞍馬など、京都の北の山に行き、 そして奥羽へ初めての旅をしました。それから高野に入り、あと、讃岐国、崇徳院の 御陵の白峰を訪ね、善通寺で庵を結びました。後、高野山に戻りましたが、伊勢二見 浦に移りました。また東大寺再建の勧進を藤原氏に願うため、二度目となりますが陸 奥へ。その途中、鎌倉で源頼朝公に面会をいたしました。こうして、こちらへ参りま したが、伊勢にはしばらく滞在をして、河内の弘川寺(ひろかわでら)に行くつもり です」 これを聞いた僧侶は「漁師は孝行のため禁漁の魚をとり、西行殿は歌のため方々を 訪ね。同じように阿漕なものじゃのぅ」 「このあたしが阿漕とは?」 「度(旅)重なりて、阿漕なのじゃ」 (圓窓のひとこと備考) この〈阿漕が浦〉の一件は地噺[西行]の結末部分でチラッと触れるという程度の ものだった。あたしはそうではなく、この部分を一席ものとして演りたいなぁ、と構 想を持っていた。何度か創作の挑戦をしてみたり、自分の勉強会で試演をしてみたり したが、どうしても、うまくまとまらなかった。 サイトの〈圓窓五百噺ダイジェスト〉のバージョンアップを機会に、練り上げてみ たのだが、とりあえず、賛否を問いたい。 |
2007.2.22 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 87 [麻暖簾(あさのれん)] |
お得意先の旦那の揉み療治を終えた杢の市が帰ろうとしたが、雨が降って来た。 旦那に「目が不自由で心配だ。夜も遅いから泊まって行くように」と言われたので、 泊まることになった。女中は離れに蒲団を敷き、蚊の出る時期なので麻の蚊帳を吊っ た。 女中が手を引いて案内をするというのを、「お宅のことは勘で知っておりますから 」と断って一人で離れへ行く。 離れの部屋の入口に丈の長い麻暖簾が下がっている。杢の市はそれに触れて蚊帳だ と思って、めくって蚊帳の中に入ったつもりで、麻暖簾と蚊帳の間に座って「あれ、 蒲団は敷いてないよ。女中さんは忘れたのかな」と思いつつ、一晩中、蚊に攻められ て一睡もできなかった。 翌朝、麻暖簾を蚊帳と間違えてしまったことを知らされて、杢の市は恐縮。 それから何日か経って、また旦那の療治にきた杢の市、夜遅くなったので泊まるこ とになった。「先日はあたしの粗忽で失敗してしまいましたけど、今晩は大丈夫です から」と女中の案内を再び断って一人で離れへ行く。 女中は今夜は杢の市がちゃんと寝られるようにと、気をきかせて麻暖簾をはずして おいた。 それを知らずに杢の市は「これが麻暖簾で、今度のが蚊帳だ」と言いながら二回め くって入り込んだので、蚊帳の向こうへ出てしまった。 (圓窓のひとこと備考) 「按摩という語は差別用語だ」「盲人を笑い者にするな」という意見もあり、徐々に 演らなくなってきた。そうじゃぁない。この噺のテーマは「盲人」ではなく、「強情 者」であり、「それが盲人だったに過ぎない」と言ってもなかなかわかってもらえな い。 |
2007.1.3 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 124 [明日ありと(あすありと)] |
大工の八五郎が屋敷で仕事の後片付けをしていると、そこの旦那がやってきて「ご 精がでますなぁ」と言うので、八五郎は「後片付けも仕事の内で、今日のことは今日 の内にやっといたほうが、あとが楽でござんす」と言う。 旦那が「上へおあがりなさい」と言うので、八五郎は部屋へ入った。 旦那は「親鸞聖人の道歌を思い出しました」と話を始めた。 「親鸞上人が九つの歳に得度をしようと、京都の青蓮院(しょうれんいん)にやって きました。剃刀を持ちましたのが、慈円僧正。ところが、辺りは暗くなっていたので、 慈円僧正が『あなたの得度は明日にしましょう』とおっしゃったときに、親鸞上人は 〈明日ありと思ふ心の徒桜 夜半に嵐の吹かぬものかは〉とおっしゃったそうです。 最前、あなたのおっしゃった『今日のことは今日の内にやっといたほういい』とい う言葉はまさに親鸞聖人のお歌そのものです」 褒められた八五郎は好物のトロロ芋を馳走になり、法話帖も貰って家へ戻った。上 ろうとすると、針箱に躓いた。女房に「片付けろよ」というと、女房は「明日やるよ、 明日」と言う。 そこで、八五郎は旦那に教わった〈明日ありと〉の講釈をメロメロになりながらも 始めた。 女房は「あたしは小さい頃からお父つぁんに言われてたから、耳にタコだよ。それ よりさっさとご飯をお食べよ。源さんから裾分けに貰ったトロロ芋があるからさ」 八五郎が「トロロは屋敷で馳走になったから、明日食うよ」と言うと、女房はこのと きとばかりに神妙な顔をして言った。 「明日ありと… 思うトロロの むぎ麦ごはん御飯… 今にあたしが 食わぬものか は」 (圓窓のひとこと備考) 浅草の通覚寺のテレフォン法話を聞いたのが縁で、この創作が出来た。電話のメッ セージに「テレホン法話集の本を差し上げます」とあったので、ある日、度胸をつけ て、庫裏を訪ねた。住職夫妻にもライブを聞いてもらったことがある。 噺の中に悪人正機も堂々と挿入しようと思ったのだが、あたしにはその解釈が難し 過ぎて、挿入は途中で投げ出してしまった。 |
2007.3.8 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 88 [愛宕山(あたごやま)] |
幇間の一八(いっぱち)は旦那のお供で芸者衆に交じって、京都の愛宕山に山遊び にでかけた。 山頂で旦那がかわらけ投げの特技を見せたあと、かわらけの代わりに小判を投げる という贅沢な遊びを始めた。 旦那は「谷底に落ちた小判は拾った者の物だ」言う。 一八は傘をパラシュート代わりにして深い谷底に飛び下りる。小判は全部拾ったが、 どうやって崖を上っていいかわからない。そこは狼や熊が出るとのこと。 とっさの機転、着ている着物を脱ぎ、裂いて長い縄をつくる。崖の途中から出てい る竹に縄をかけて、その竹を十分にしなわせて、そのしなりを利用してヒラリと空を 飛んで戻ってきた。 旦那「えらいやつだなぁ、一八。金は?」 一八「あッ、忘れてきた」 (圓窓のひとこと備考) 傘を使って飛び降りることも、竹の反動で飛び上がることも不可能なことであるが、 それを可能の如く聞かせる、見せる芸の力が必要だ。だからこそ、落ちも利く。 |
2007.1.3 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 89 [頭山(あたまやま)] |
袋物の職人のけち兵衛。腕はいいのですが、大変なけちで、無精という困った性格。 ある年の春。上野の山に花見に行った。贅沢はしませんで、落ちている物を拾って 食べよう算段。ところが、落ちている物はなくて、腹がペコペコ。フラフラしながら、 桜の木の下で見付けたのがサクランボウで、それをどっさり拾ってみんな食べてしま った。けちな人ですから、種も飲み込んでしまった。 その内の一つの種が胃の中で発芽して、頭のてっぺんがむずかゆくなってきて、芽 が出てきた。無精な人ですから、そのまんまにしておいた。これが成長が早くてニョ キニョキと大きくなって、見事な桜の木。 一年後の春には、花を咲かせた。この「頭山の桜」が評判となりまして、大勢の花 見客が訪れ、頭の上で朝からドンチャン騒ぎをしてうるさくってしょうがない。 とうとう、けち兵衛も堪忍袋の緒を切って、頭に手をやると、「もう、人が来ない ように」と桜の木を抜いてしまった。大きく深く、根を張っていたから、そのあとが 大きな穴になってしまった。すぐに、埋め立てをすればいいんですが、無精ですから、 そのまんまにしておいた。 夏になったある日。けち兵衛は用足しの帰りに夕立ちにあった。頭の穴に雨水が溜 ったのだが、無精で欲張りですから捨てません。そのままにしておいた。誰言うとな く「頭が池」。 秋になると、そこに鯉、鮒、だぼはぜ、どじょう、えびがになどが住みついた。朝 から子どもたちが釣りに来て、キャーキャーと、うるさいこと。大人たちもやってき て、船を出して糸を垂らすやら、網を打つやら。中には、「舟遊びだ」てんで、芸者、 太鼓持ちを乗せて夜遅くまでドンチャン騒ぎ。うるさいのなんの。 けち兵衛は「これじゃ、寝られない」と自分の頭の池に身を投げて死んでしまった。 これが噂となって拡がった。 八公「自分の頭の池に身を投げるなんてこと、できるんですかね」 隠居「そりゃあ、袋物の職人だもの。お手のもんさ。袋を縫い上げた直後は裏になっ ているだろう。それを返して表を出す。それのためには、裏が中へズブズブと入 り込むことになる。けち兵衛もそれと同じように、頭の中に頭からズブズブと入 り込んだんだ」 八公「あとで『恨めしい』と、出てくるんですかね」 隠居「いや。出て来ない。けち兵衛は袋物と同じで、生きていたときが裏で、死んで 表になったんだ」 八公「なるほど。恨め(裏目)はねぇえんだ」 (圓窓のひとこと備考) 「自分の頭の池に身を投げて死んでしまった」と終っても落ちになっている。が、「 どうやって身を投げたのかな?」という謎解きも楽しいと思い、付け加えたのが隠居・ 八公の対談。針を持つ人が少なくなってきた今日、袋物の説明も蛇足ではない。 |
2007.1.3 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 90 [穴泥(あなどろ)] |
大晦日に三両の金の工面が出来ないことで女房に家に入れてもらえず、外をあても なくうろついていた男。ある家の裏の木戸が開いていたので、不用心を注意してやる ような心持ちで、ふらふらと家の中に入っていく。 男は宴会が終わったあとの誰もいない座敷に入って、残っている物を飲み食いしは じめる。そこへ、はいはいして出てきた幼児。男は子供好きなのか、その子をあやし ながら後ずさりして、穴蔵に落ちてしまう。 男は酔っているので自分の状況がわからず「誰なんだ、俺をこんな暗いところへ突 き落としたのは!」と怒鳴り散らす。 この声に、「泥棒が穴蔵に落ちた」と店中が大騒ぎになった。主人は町内の頭に来 てもらって、「一両の礼金を出すから、穴蔵に下りて中の泥棒を引き上げておくれ」 と頼む。 町内の頭は穴蔵に入って行こうとするのだが、穴の中で泥棒が大声で怒鳴っている ので、なかなか下りていけない。ぐずぐずしていると主人は「礼金を二両にあげるか ら」と言うが、やはり下りていく度胸がつかない。 そこで、さらにつり上げて「三両にするから」と言う。 と穴蔵の泥棒が「なに、三両? 三両なら俺の方から上がって行く」 (圓窓のひとこと備考) 落語の中の泥棒は憎めない泥棒がほとんどである。刃物を振り回したり、殺したり はしない。この噺の中の泥棒も、はいはいして出てきて幼児をあやす場面などはむし ろ微笑ましいほどである。 |
2007.1.3 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 102 [あわて朝顔(あわてあさがお)] |
この寺の和尚は朝顔が大好きで、時期になると境内にいっぱいの朝顔を咲かせるの が自慢で、俗にこの寺は〈朝顔寺〉と言われている。 門前町の家々から十歳未満の子供たちを預かって修行をさせることにも精を出して いる。だから、寺にはいつも小坊主が五人ほどいる。 和尚は朝顔の咲く頃になると、毎朝、早起きをして朝顔の花が開くのを見て楽しむ。 小坊主たちも同じように早起きして和尚と一緒に境内を回って開花を見る。 ところが、新入りの年念(ねんねん)という小坊主だけは起きてこない。毎日、お 昼過ぎまで寝ている。前の晩に和尚からきつく言われても、寝坊の毎日。目が覚めて あわてて境内にやってくるのだが、昼過ぎなので、朝顔は萎れている。その度に和尚 に叱られ、仲間には笑われる始末。とうとう、みんなから相手にされなくなってしま った。 ある日、この年念。珍しく朝早くに目を覚ました。すぐに起き出して境内へ回ると、 もう和尚、仲間の小坊主は朝顔を見て回っている。 年念は「お早うございます」と言いながら駆けつけると、今まで咲き誇っていた朝 顔が一斉に萎れてしまった。 驚いた和尚が朝顔に言った。「これこれ、朝顔たちよ。なんだって急に萎れるのだ」 すると、朝顔が一斉に「年念が来たので、昼過ぎかと思いました」 (圓窓のひとこと備考) 原作は江戸小咄で、あたしが膨らませて一席ものにした。最初、商家の旦那と小僧 というキャストで演ってみたが、いつしか、寺の境内を舞台とするように演出を変え ていた。紫陽花寺とか萩寺とかのイメージが羨ましかったのかもしれない。 |
2007.2.22 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 91 [鮑熨斗(あわびのし)] |
甚兵衛は女房に知恵を付けられて、魚屋へ行った。そこで、鯛の尾頭付き魚を買っ て、それを大家の息子の婚礼祝いに贈って倍返しの金礼を貰って、借金も返して食料 も買い込もうという魂胆。ところが、所持金不足で安い鮑を買って大家の所へ向った。 しかし、大家は「磯の鮑の片思いというから縁起が悪いから受け取れない」と怒り 出す。 ショックの帰宅途中で、兄貴分の辰蔵に声をかけられたので、どうすればいいか相 談をする。 辰蔵は「祝い物に付く熨斗は鮑で作るんだから、めでたいものだ」と反論の文句を 教える。 甚兵衛は再び大家の所へ行って、教えられた通りの「熨斗の根本由来」の口上を述 べて、返礼の増額を要求する。 感心した大家が「漢字で書く〈乃し〉は杖をついているように見えるが、あれはな んだ」と訊いてきた。 甚兵衛は苦し紛れに「鮑のおじいさんです」 (圓窓のひとこと備考) この噺には鮑の薀蓄が含まれているので、貴重な作品であるが、なにしろ、落ちが 上質ではない。だから、落ちまでいかずに途中で切り上げる形で演じられることが多 い。 |
2007.1.3 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 69 [有馬の秀吉(ありまのひでよし)] |
ある年、豊臣秀吉は体調を崩して有馬温泉へ湯治に行った。その時、有馬は梨の木 が多く、それも時期だと見えまして花は満開。 「おぅ、見事じゃ」と、秀吉は病も忘れて大変なご機嫌。夜分、枕へつきますと、咲 き誇っている梨の花が一斉に散る夢を見た。 それも一晩だけではなく、その晩も、次の晩も、また次の晩も、梨の花が一斉に散 る夢。縁起の悪い夢ですから、病は重る一方。 これを伝え聞いた家臣の細川幽斎。「このとき」とばかりに早駕篭に乗ると、有馬 温泉を目指した。 といいますのは、秀吉は前々から幽斎に言ってあった。 「そのほう。歌が好きじゃと聞いておるが、歌で予の機嫌をとってみよ。上手く出来 たら、褒美をとらしょうぞ」 「そのお言葉、誠でござりましょうか」 「余は、嘘はつかんぞ」 こういう約束があったので、幽斎は「このとき」とばかりに駆けつけた。 「殿下ッ。これを、ご覧下さりませ{短冊を差し出す}」 「なに、そのほうの詠んだ歌か…。『太閤の命有馬の湯に入りて 病は梨の花と散ぬ る』。おお、治った!」 たいそうなご機嫌で、十日後には全快をして、大坂城に戻って、早速、幽斎を呼ん だ。 「褒美として加増を申しつける。予からの返歌の短冊じゃ」 「拝読いたしまする。『幽斎に加増有馬の湯も豊か 偽りなしの実をば結びて』。有 り難き幸せ…」 「加増、三十一石じゃ」 「三十一とは、また半端でござりますな」 「それで、よい。三十一文字(みそひともじ)の働きじゃ」 (圓窓のひとこと備考) 講釈の6代目一龍斎貞丈師(03(平成15年)年10月1日、急性心不全のため 死去。享年75歳)から教わった[鼓が滝]のマクラとして入っていたものを圓窓が 肉付けして一席とした。マクラとしての挿話だからごく短く、幽斎が秀吉に歌を送っ たというところまでのもの。 一席物として独立させようと、秀吉からの返歌と落ちを創作した。それにメール仲 間の大蛇さん、ひらりんさんの狂歌指導により、その返歌はヴァージョンアップを重 ね、幽斎の贈歌に匹敵するほどの作品となった。(笑) こういう作業を認めてくれる落語ファンが、一人でも二人でも増えてくれることを 願って止まない。 |
2006・7・29 UP |
圓窓五百噺ダイジェスト 92 [按摩の炬燵(あんまのこたつ)] |
店の若い奉公人たちが「毎晩、寒くて寝られないからなんとかしてください」と番
頭に嘆願する。だが、「贅沢はさせません。火の用心のためやたらと火は使えません」 と厳しく言う。 そこで、一案。出入りの按摩の米市(よねいち)を呼び込み、好きな酒を飲ませて 体があったまったところで「炬燵がわりになって、ここの蒲団の中で寝ておくれ。み んなが足を突っ込んで暖まって寝るから」と頼む。 妙な頼みだが引き受けた米市は、酒でほてった体を炬燵やぐらのように四角になっ て蒲団の中に入った。大勢の奉公人があちこちから冷たい手足を突っ込んでくる。 みんな暖かく寝られた様子。 だが、真夜中に一人の小僧が変な寝言を言い出した。「もう我慢できないから、こ の橋の上からやっちゃうぞ」と。そう言いながら、寝小便をしてしまった。 米市はたまらずとび起きて「いくらなんでも!」怒り出す。 すると、番頭が謝って、「もう一度炬燵になっておくれ」と頼む。 米市は「いいえ、炬燵は駄目です。小僧さんの小便で火が消えてしまいました」 (圓窓のひとこと備考) つもりで演ずる噺家はいない。また「按摩」という言葉自体が差別に通じると言われ たこともあえい、演りにくくなっている。しかし、噺としてはよく出来た作品だ。 |
2007.1.3 UP |