サ ヨ ナ ラ ただしろうさん(柳沢睦郎さん)
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2001年9月7日(金)
18時36分 逝去
享年 71歳
死因 前立腺ガン
通夜・斎場 川越西口会館 |
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その 1 |
通 夜 の 写 真 を 見 て
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文責 流山大蛇(茅野達雄)
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ただしろうさんのお通夜の席にお邪魔しました。
仏壇に掲げられている写真は、さわやかな表情で何かを語りかけているアップ。
出版記念での挨拶の高座姿です。
お人柄をそのまま写し、懐かしいお声まで聞こえてくるようないい写真です。
戒名は「話唱院釈睦親居士」
話芸の魅力を提唱し続け、一方、誰とでも分け隔てなく睦み、親しむ、やさしく心
の広い方であったことをあらわす結構な法名です。
氏とのお付き合いは10年間でした。
マスターネットでのドドイツ合戦、圓窓五百噺コミカレで机を並べた同窓生。
「PC版落語事典」作成の二人三脚、、、、長い期間ではありませんでしたが、それ
はそれは濃いお付き合いをさせていただきました。
ありがとうございました。
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その 2 |
弔 辞「 ただしろうさんは お客の鑑でした 」
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文責 三遊亭 圓窓
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柳沢さん……。
まさか、こんな悲しい話しかけをすることになるとは夢にも思いませんでした。
いつもですと、冗談半分、真面目半分。その度にクスグリや落ちを付けて笑って楽
しんでいましたから。
でも、今日は悲しみのどん底へ突き落とされたも同然で、このままでは言葉は涙に
閉じ込められて出てきそうもありません。
ですから、柳沢さん。いつものように、笑って聞いてくださいな。
十五年ほど前でした。
その頃、あたしは吉田あきらさんというプログラマーに薦められて、なんだかわか
らないうちにパソコン通信を始めていました。
ある日、池袋のサンシャインビルの中で、そのパソコン通信のデモンストレーショ
ンをやったんです。
そこへ柳沢さんが訪ねてきたじゃありませんか。あたしはびっくりしましたよ。
「パソコン通信って、どんなもんかと思いましてね」
「どんなもんかって、柳沢さんは池野通建という電話線工事の会社の重役でしょうが。
なのに、パソコン通信を知らないなんて、罰があたりますよ」
「じゃあ、やってみましょうか」
そんなことから、パソコン通信の仲間に入ってくれましたね。
またその上達の早いこと。あっという間にキーボードはブラインドタッチ。
「会社の若い女の子が教えてくださいって、来るんですよ」
って、嬉しそうに話してくれましたね。
そうそう。パソコン通信ではハンドルネームといって、ニックネームを付けます。
柳沢さんはすぐに自分で"ただしろう"と、しました。
落語の[元犬]ですよね、由来は。
シロという犬が人間になったとき、「元の名前がシロ」「何四郎だい?」「ただシ
ロです」「只四郎か、いい名前だね」というクスグリから取った名前でしょうね。
「じゃ、ついでにおかみさんを”もと”にしたら」と冗談に言ったら、早速にそうし
ましたね。
おかみさんの名前の”もと”も、一躍有名になりましたよ。
”ただしろう””もと”って、いい名前ですもの。
ただしろうさんを知る我々楽屋の者は「お客の鑑」と評していました。
といいますのは、落語ファンにもいろいろタイプがあるようで。中で我々が一番嫌
うのが、「前座は聞きたくねぇ」「若いあいつは下手だから」とかなんとか能書きを
たれて、客席へは入らずにロビーで気取ってタバコをふかしている落語ファン。
しかし、ただしろうさんは「あたしはああいう落語ファンにはなりたくない」と日
頃から言っていましたね。
客の頭数の少ないとき、どうしてもお客も沈みがちです。そんな状況でも、ただし
ろうさんは前座、若手から聞いて楽しく声を出して笑っていました。しまいには他の
お客もつられて笑うようになるもんなんです。ただしろうさんのおかげで何度も寄席
は救われていたのです。
ですから、ただしろうさんは、「お客の鑑」なんです。
九四年に、ついに本を出版しましたね。〔落語つれづれ草〕。落語史上に残る名著
ですよ。
「こんなことは一生に一度しかないことですから、パーティーを開きたいのですが、
出席していただけますか?」って、言ってきましたよね。
なに言ってんの、ただしろうさん。一度じゃぁない、評判が良くてその後も出した
じゃありませんか。
まぁ、それはさて置き、パーティーのこと。
「じゃあ、ついでに、会場に高座を設けて自ら落語を演ったらどうです?」
「あたしがですか? プロの前でですか?」
「そうですよ。だって、『本を出しました。記念パーティーです。会費をください。
飲み食いして結構です。本を差し上げますから』なんてことは世間にありすぎるほど
あるでしょう。つまんないですよ。本が上等なんだから、パーティーも上等にしなく
ちゃ」
「あたしが落語をやったら、顰蹙をかいますよ」
「そんなことにはならないですよ。あたしが演出しますから。高座の設置に経費はよ
けいに掛かるかもしれませんがね」
決心したただしろうさん。ついに落語を披露してくれましたね。
あの日、我々プロの先導で会場入りしたただしろうさん。そのまま、共に高座に並
んで口上の後、一席。
祭壇の写真は、あのときの写真でしょう。
紋付の着物……、覚えていますよ、あたしは。
口元は圓生似ですね。
眼鏡はかけてますが、ちゃんとした落語の眼差しで、生きてますよ。
あたしがただしろうさんに、あえて落語を演ってもらったのには、理由があったん
です。
素人で落語を演る人は多いですよ。しかし、その危険性に気がつかない人も多いん
です。我々はそういう人達を「天狗連」と言ってんですが、つまり、どうしても天狗
になりがちなんですよ。
プロを前にして、「あたしもその落語を演るんです」とひけらかしたり、「あの人
はあまり上手くないですね」とプロをけなして自分を主張したりする。
そういう人達を我々は嫌います。
ところが、落語を演ってても、ただしろうさんにはそれがなかった。ちゃんと前座
から聞く人ですから、小僧っ子の若手をも立てて気を遣っていましたね。ただしろう
さんならではの人間性なんでしょうね。
だからこそ、安心して落語をお願いしたんですよ。
そうそう、ゴルフに誘ってもらったことがありました。
四人で回っていても、二人になると落語の話ばかりでした。落ちの改良、創作の工
夫。合間、合間に必ず駄洒落が入って。結局、二人は他の者には知れないようにゴル
フより有意義なことを楽しんだわけなんですよ。服装はゴルフだが、思いは落語でし
たね。
ただしろうさんは、ゴルフの帽子がよく似合いました。
通夜のとき、棺の中で眠るただしろうさん、帽子を被ってましたね。
枕もとの左には自著の本が……。
右側にはただしろうさん宛の窓門会からの大きな封筒が置かれてありましたね。
ふくらんでいたから、窓門のチラシやら広報誌〔ぞろぞろ〕などが同封されている
のでしょう。
丸山さんが印刷した封筒……。
大蛇先生が作った宛名ラベルが貼ってある封筒……。
和田さんが発送作業した、あの封筒……。
これらは納棺の折のおかみさんの心づくしなのでしょう。
常に落語と共にあったも同然のただしろうさんの一生がしみじみと感じられました
よ。
9月3日の圓生物語には行くつもりでチケットを2枚、買ってあったそうですね。
大の圓生ファンが圓生物語に行かれなかったんですから、悔しかったでしょう。
あたしとしても、聞いてもらえなかったこと、残念ですよ……。
あたしは温厚なただしろうさんのファンの一人かもしれない、と思うことがありま
す。
あたしがいろいろ騒動やトラブルに巻き込まれて、腹を立てたり、気力を失いかけ
たりしたとき、ただしろうさんは決まってあの優しい笑みをもって「師匠。あたしも
師匠と同意見です」と言ってくれましたね。あたしは何度ただしろうさんに支えられ
たことだろうか……。
実は、圓生物語・四の巻でもトラブルがありましてね。出演者の変更の一件なんで
すが、理由をお伝えできなかったこと、無念です……。
出棺の折、菊と一緒に圓生物語・四の巻のプログラムも棺に入れさせてもらいます
から、読んでくださいな。歩きながら読んでは駄目ですよ、転ぶから。ゴルフのスコ
アー表じゃないんですから。
あの世に着いたら読んでください。「圓窓師匠。あたしも師匠と同意見です」と、
言ってくれると思っていますよ。
ただしろうさん。あの世で大好きな圓生に会えるんですよ。
ついでに、あの世の落語人口もふやして待っててくださいな。
我々もいずれ、そちらへ行きますから……。
実は……、昨夜、夢を見ました。
天からの声なんです。誰の声だか、わからないんですが、天からの声です。
「もし、亡くなった人にもう一度会えるとしたら、誰を選ぶか。決めておけ!」って
んです。
それで目が覚めたんですが……。
もし、それが可能だったら、あたしには二人、会いたい人がいます。
一人は、あたしの師匠の圓生……。
で、もう一人は、ただしろうさん、あなたです……。
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その 3 |
僕は 頂いてばかりだった
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文責 吉田 明
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僕の本棚に、表紙をめくると「謹呈 吉田明様 柳澤睦郎」と筆で書かれた本があ
る。
扇子に睦と書かれた印まで押してある。カバーを無くさぬよう、また赤いオビも無
くさぬように、メンディングテープで止めてある。
柳澤先生と初めてお会いしたのは、たしか1988年。当時、先生がお勤めだった
池野通建株式会社にお邪魔した時だったと思う。
昨日の晩飯も覚えていないような記憶力なので定かではないが、たぶん、圓窓師匠
のご紹介で、パソコン通信のマスターネットに入会されるという事でモデムのセット
アップに伺ったのだろう。
その時だか、その後だか、これも覚えていなくて申し訳ないのだが、昭和三、四十
年代の寄席のプログラムにびっしりと、当時の感想を書かれているのを拝見させてい
ただいた。僕が生まれたかどうかもわからない頃から、落語の大ファンな方であった。
パソコン通信に入会されてからは、落語の[元犬]から命名した「ただしろう」と
いうハンドル名(当時のパソコン通信仲間は、自分でつけたニックネームで呼び合っ
ていた)でお呼びすることになっていた。落語からハンドル名をつけるとは念の入っ
た噺好きな方である。
明治乳業がマスターネット社を手放す頃、僕も会社を離れたので、ただしろうさん
とは、疎遠になった。
それから暫くして、圓窓師匠と今度はインターネットでメーリングリストを開くこ
とになった。圓窓師匠のご紹介で、同じマスターネットユーザであった大蛇さんと共
にただしろうさんにも、メーリングリストにご参加いただいた。
その時、池野通建を退職なされて日大の講師をなさっている、とお伺いしてとても
驚いた。
時々、メーリングリストの中で、落語に造詣の深いただしろうさんらしい知識や感
想を披露していただいた。
また、”スタジオ200”だった頃から通われている圓窓師匠のコミカレのレポー
トを毎回、投稿してくださっていた。温かみのある文章で、簡潔では有るが、まるで
一緒にそこに居たかように内容が伝わってくるレポートだった。ただしろうさんはお
金をかけて通われているのに、僕はただで受講出来たかのようで申し訳なかった。
そんな中で、ただしろうさんが本を出版されたことを知り、本屋に注文をしたのだ
が、出版元にも無いとの事で、仕方がないのでただしろうさん本人に、手元にあれば
売ってくださるようにお願いした。〔落語 江戸風俗志〕という本である。
この本の最後のページには、ペンで書かれた小さな手紙がはさんであった。
「あきら様 遅くなりましたが、拙著、送らせていただきます。
贈呈申し上げますので、代価等ご心配なきよう。
読後、感想などいただければ幸いです。
仙台高尾のこと、第六話で触れております。
足りないところは、また、お会いするなどして、、、。
ただしろう」
僕は 頂いてばかりだった
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その 4 |
含笑寺の 屏風の書
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文責 モテ
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柳澤先生の思い出
初めて先生にお目にかかったのは、2000年9月3日〔圓生物語・三の巻〕の日
でした。会がはねて、ロビーに出たときに師匠が紹介してくださり、先生は温和な笑
顔を見せてご挨拶下さいました。
翌日、先生からダイレクトメールが届き、会に参加したことへの謝辞と「文は人な
りと申します。これからはもっとよく読みます」と言う意味が書かれていました。
名古屋含笑寺の圓窓五百噺のレポートについて、落語の著作のある先生からこのよ
うなお言葉をいただいて冷や汗がどっと出ました。
五百噺が完結した今年3月、最終回の会場風景の写真をお送りしました。
興味深くご覧になったご様子で、いただいた返信に「圓窓師匠と並んだ関山先生の
向こう側に"恋しくばーーー"の書がかかっていますが、葛の葉が含笑寺さんに関係
あるのか、芝居で使われたものなのか、など想像をめぐらしています」とお書きにな
っていました。
含笑寺の屏風に書かれたこの書は、不思議な書体でなにか謂れがあるものでは、と
私も思っていました。世話人さんにお尋ねしましたら「これは桂小文枝師匠(多分)
が、この歌にちなんだ落語を演じた際に、右手と左手と口を使って書かれたものであ
る。この書を書いたのは2度あって、一度は障子に書いたが、それはもう残っていな
くて、今はこの屏風が残っている」とのこと。
その調査結果(?)を報告した際に、「なんという落語でしょうか」とお尋ねしま
した。
「葛の葉の和歌、やはり咄家さんに関係があったことも嬉しいことです。この噺、こ
の和歌がそのまま出てくるのは[天神山]だと思います。もとが上方噺で(以下略)
・・・」と歌舞伎と落語の関係を即座にお返事くださいました。
たった一葉の写真からも見るべきものを見ている眼力、5年も通っていたのに屏風
の書をただの飾り物のように眺めてきた自分の目、それらは落語を鑑賞する姿勢にも
現れているような気がしてなりません。
改めてご著書を読み返してみて、落語に対してこのように温かい目をして聴いた方
はいないのではないかと思います。
ご署名いただいたご本を大切に、私の落語人生のバイブルとさせていただきたいと
思っております。
短い間でしたが、たくさんのことを学ばせていただきまして、有難うございました。 |
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その 5 |
庶民派の 学究の徒
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文責 流山大蛇(茅野達雄)
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故人とは晩年の10年間のおつき合いでした。
月に一回、池袋のコミカレ・圓窓五百噺でお目にかかって親しくお話をした以外に
もパソコン通信ではいっとき毎日のようにやりとりをしていたので、何十年来の知己
のように思える方でした。
一番の思い出は視覚障害者のネットで故人と二人で協力しあって一年間かかって「
落語事典」をつくりあげたことです。
古い記録をひもとき、記憶をたどり、あらためて見、聞き、読みなどして作りあげ
ていくその過程の中に氏の噺への愛着、演者への思い入れのなみなみでないことが伺
われました。教え教わり、励まし励まされの事典づくりの日々は私にとっては至福の
時でした。
退職後の、大学や高校の教壇での落語や芸能の普及活動も忘れてはならない立派な
業績だと思います。
また二冊のご著書を読み返しては氏の優しく暖かいまなざしを偲び、自らの余生の
過し方の指針にしたいと思います。
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その 6 |
日大学芸術学部で演らせてもらった[そば清]
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文責 三遊亭 萬窓
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平成七年の七月、柳澤さんが日本大学芸術学部の開講講座で、〔江戸風俗論〕の講
師をなさっていた時、その授業で一席頼まれた。
日大の芸術学部へは、西武新宿線の航空公園駅からバスに乗る。高田馬場発の電車
の時刻を知らせてくれて、当日、改札口で出迎えてくれた。
その日は〔江戸の食物〕がテ−マで、ネタは[そば清]。20人程の学生さんだっ
たが、よく笑ってくれてとてもやりやすかった。
一席の後は質疑応答で、柳澤さんの司会で質問を受けた。
「そばを食べるときの音は、どうやって出すんですか?」という高度(?)なものか
ら、「休みの日は何をしてますか?」というプライベ−トなものまであり、楽しいひ
とときを過ごした。
終業後、近所のそば屋へ誘ってくれたのは[そば清]への配慮か。ご自分は酒を飲
まないのに、私には酒をすすめてくれて、二時間程、落語の話をした。
昔の寄席のことを話す柳澤さんは、無邪気な子供のように、楽しく思い出を語って
くれた。
私が間に合わなかった先代文楽、志ん生、四代目小さんまで、その記憶力には脱帽
した。
寄席に通った時つけたメモから、氏の著書である『落語つれづれぐさ』は生まれた
と聞く。
その後、私の勉強会に足を運んでいただき、必ず感想を送ってくださった。
「私のような素人が言うのも、おこがましいが、、、」とこちらに気を遣いながら、
的を射た意見が多く、どれほどためになったことか、、、。
「今秋、真打になります」とメ−ルで報告すると、「今秋でなく、今週なってくださ
い」とすぐ返事がきて、自分のことのように喜んでくださった。
披露パ−ティにもお誘いしたが「体調がすぐれませんので、、、」とお祝儀を多分
に送っていただいた。
もう少しお元気でしたら客席から、晴れの姿を見てもらえたのに、、、。
あのにこやかなお顔を拝見できないと思うと残念でならない。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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その 7 |
お話できなかったのが 残念
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文責 無銭
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今、パソコンを開いて、この訃報のタイトルが飛び込んできました。
9月4日に、圓窓師匠とご一緒の千歳からの車中で、お話に出たばかりでしたのに、
驚いています。
メールの上でのお付き合いと、手紙のやりとりを数度、ご本を送って頂いたりしま
した。
直接お会いして色々とお話を出来なかったのが残念です。
心からご冥福をお祈り申し上げます。 |
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その 8 |
先日まで メールが ……
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文責 いまがわ
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つい先日までメールがはいっていたよな気がしたのですが、ご病気だったのでしょ
うか。
いつかゆっくりお話を聞けるだろうと、のんびりしていました。
後悔ないように、ひとつひとつの出会いを大切にしていきたいですね。
ご冥福をお祈りいたします。 |
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その 9 |
私も日芸の 卒業生
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文責 村手
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結局、一度もお目にかかれなかったんですが、私も日芸の卒業生。
学科違いとはいえ、縁の浅からぬものを感じます。
お目にかかれなかったのは、本当に、残念。
謹んで、ただしろうさんのご冥福をお祈り申し上げます。 |
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その 10 |
偉ぶることのないメール
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文責 仮名
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歳も社会的な地位も落語への造詣もずっと未熟な私などへ、少しも偉ぶることのな
いメールをくださって、驚かされました。
メールでしか存じ上げませんが、お人柄が文章ににじみ出ていたのではないでしょ
うか。
落語会にとっても貴重なファンのお一人だったのではないでしょうか。
お目にかかっていろんなお話を伺いたかったです。
心からご冥福をお祈りいたします。 |
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その 11 |
初めての メールによる訃報
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文責 弥助
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メールで訃報を受け取ったのは初めてで、おどろきました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。 |
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その 12 |
江古田文学を持ってます
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文責 チャッキー
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私が江古田文学を持っていることにお礼を戴いて・・・
コミカレでお会いしたいと思っていたのですが、とうとう会えずじまいでした。
残念です。
ご冥福をお祈りいたします。 |
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その 13 |
あの詩が 蘇ってきた
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文責 無弦
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突然の訃報に接し驚いております。
ただしろう様のご冥福をお祈りするばかりです。
師匠の友を悼む文章に接し、ゴメンナサイ、不謹慎かも知れませんが、、、、。
つい昨日、観た「千と千尋の神隠し」のあの美しい主題曲の一節が耳に蘇ってきて、
胸を衝かれました。
さよならのときの 静かな胸 ゼロになるからだが 耳を澄ませる
生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街も みんなおなじ
呼んでいる 胸のどこか奥で いつも何度でも 夢を描こう
かなしみの数を 言い尽くすより 同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにもいつも 忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも 新しい景色が 写される |
(圓窓校注:この詩の作者は覚和歌子さんです。
扇橋門下の扇辰の恋女房でもある。
二人に許可を受けて記載しました) |
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その 14 |
日芸の授業を 引き継ぎましたよ
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文責 三遊亭 圓窓
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ただしろうさん。
お知らせします。
日大芸術学部から「柳沢先生のあとの授業を引き継いでくださいませんか」って電
話をもらっちゃって。
「お役に立つのなら」と引きうけましたよ。
だって、ただしろうさんのあとだし、名誉ですよ。
10月の11日から十一、ニ回の授業になると思いますが、あたしとしても、勉強
して臨みますので、有意義ですよ。
でも、まさか、こんな形で日芸で講義するとは、、、、。
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2001・10・14 UP
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その 15 |
柳沢先生 ありがとうございました
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文責 66D134−0 高田 菜々
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「他学科で、所沢だけど、江戸の風俗を落語に沿って教えてくれる授業があるよ」と
いう友人の情報にすぐに飛びついたのが、大学4年生になる春のことです。
さっそく『風俗論』を受講しそして、柳澤先生に出会いました。
柳澤先生の授業は主に、先生が書かれた「江戸風俗誌」を教科書にして、落語の例
を取り上げ、江戸の文化や暮らしを教えて下さるものでした。
でも、普通の授業とは少し違いました。
まず、手本となる題材の落語を説明をするために、サラリと落語を先生がハナシ、
いよいよ詳しい江戸の風俗を説明している途中で、「こんなのもあるよ」といったカ
ンジで、別の落語がハナシ始まってしまう。それが実に楽しそうな先生。誰も止めら
れないから、噺のサゲまで言ってしまう。
落語の内容を簡潔に説明するのは、確かに難しいと思います。
先生の方も説明するうちに、落語をハナシちゃったほうが分かり易いから、つい演
ってしまわれるんだと、私は思っていました。
でもやはり、噺家さんと比べては良くないんですが、あんまり上手とは言えなかっ
たりして…
そんなことをこっそり思っていながら、私は、先生をとても羨ましく感じていまし
た。
果たして私はあんなに落語のことを楽しそうに説明できるだろうか。ついハナシ始
まっちゃう程、純粋に落語を好きだろうか、と。
私は、落語がテーマの卒論を進めるにつれ、落語について悩み、聞くことさえまま
ならない位に、落語との関係がうまくとれていませんでした。
今年で卒業二年目の初秋、先生の訃報が届きました。
とても純粋に、落語を愛する先生に出会い、そして学ぶことができ、私は本当に幸
せ者です。
参列させて頂いた時、先生のような落語ファンになることが、私の夢。と本気で思
いました。
先生、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
誤解のないように付け加えておきますが、授業中、先生はいつも落語をやってらっ
しゃった訳ではありません。ちゃんと風俗のことを教えてくれました。あしからず。
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2002・4・22 UP |