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狂言と落語の交わり (一)

狂言〔附子〕と 落語[留守番小坊主]

観賞:1997・10・4 国立演芸場・公演『落語と狂言の関係』
精読: 大日本図書・発行『おもしろ落語図書館・その四』
文責 こんの字


 圓窓師匠が狂言の〔附子〕をアレンジして、[留守番小坊主]と題して高座にかけ
ると聞いて、楽しみに出かけた。
 まず、気になったことから、いくつか書きます。
 貴重品でなおかつ大好物となれば、それが手に入った場合、他人にはあげたくない
のが、人情。〔附子〕ではそれが砂糖、[留守番小坊主]では饅頭という設定で、持
ち主は結局、自分の留守中に、計略の甲斐もなく食べられてしまうのが、見ていてち
ょいと気になったのが、砂糖の分量と饅頭の大きさである。
 狂言では腰桶が砂糖を入れた器に見立てられるが、こうするのが伝統とはいえ、少
々大きすぎやしないか。いくら「―――のつもり」とはいえ、実際に瓶にでも入って
いるかのように錯覚してしまう。むしろ、舞台の上には何も出さず、視線と手つきで
小さな壷に毒が入っているかのように演じれば、二人で食べ尽くすという分量に適う。
「黒くどんみり」とした砂糖がどういう砂糖か、食物史の上から調べなければ軽はず
みなことは言えないが、甘かったことだけは確かだろう。となれば、そうそう一度に
たくさんは食べられないはずなのだが……。
 いっぽう、落語の饅頭は演者が二つに割る手つきで中華饅頭ほどの大きさ、とあた
しは見た。「菓子鉢に入った十個の饅頭を二人で全部平らげる」にしてはちょっと大
きすぎる。今より少々大き目としても、親指、人差し指、中指の三本を使う程度でで
はないのかと思う。半分に割る手つきか、饅頭の数か、どちらかを変えてほしかった、
というのが正直な感想である。
 ちなみに三島由紀夫の英語版〔附子〕では「大きな古めかしい東洋風の瓶」がアイ
スボックスになっていて、生のキャビアが一杯詰まっているという設定。
さて、どういう食べ方をするのか、見てみたかった。


 ここで、視線を変えてみる。
[留守番小坊主]を観終わった時、ああ口直しができてよかった、と思ったものだ。
 噺の前に上演された〔附子〕に後味の悪さ。いってみれば、食後、舌にいつまでも
残る化学調味料の味のような不快感があった。それは決して演者のせいではなく、演
目そのものが持つ苦さなのだ。
〔附子〕を見ていない方のために説明しておこう。
「猛毒の附子だ」と主人に言われていた物が「砂糖」と分かり、主人の留守中に全部
食べてしまった太郎冠者が、その言い訳のために大切な掛軸を破り、天目茶碗まで割
る。帰って来た主人に、そのため「死んでお詫びしようと附子を食べたが、死ねなか
った」とうそ泣きをする、という話。
 附子を食べてしまったという「結果」の言い訳、つまり「原因」をあとになってわ
ざと作る、というところが悪賢くて好きになれない。狂言では、悪知恵を働かせて目
上の者をギャフンとやり込める話が実に多いけれど、どれも痛快なやり方で気持ちよ
く笑える。すっきりと楽しい。でも、〔附子〕は違う。その知恵は小賢しく悪辣です
らあって、すっきりしない。あたしは、こういうの嫌いです。
 しかも、イニシアチヴをとる太郎冠者ときたら、たとえ冗談とはいえ「お前が(附
子を)食っちゃったからなくなった」とか「掛軸を破ったのお前だからな。オレ知ら
んもんね」みたいなことを次郎冠者に言う始末。いやな奴だ。絶対に許せない!
 そこへいくと[留守番小坊主]は話の組み立てが素直である。
大暴れした小坊主二人が和尚さんの大事な皿を割ってしまい、どうせ叱られるならと、饅頭まで平らげてしまう。「死んでお詫びのつもりだった」と言い訳をするのは〔附
子〕と同じだが、「原因」が先に起こって「結果」を作る。
 心理も話の筋立てにも無理がない。年かさの西念が「皿は安物、饅頭に毒は入って
いない」と見抜いているところが十三歳にしては少々こまっしゃくれていなくもない
が、落語に登場する子供はみんなこの程度の知恵を持ち合わせているものだ。生意気
だけど可愛い。悪知恵はトンチの範囲に納まっていて、気持ちよく笑える。
 落語[留守番小坊主]が狂言〔附子〕よりあとで聞けて、よかった。

[留守番小坊主]の梗概は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺ダイジェスト/留守番小坊主
2000・6・10