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 ここに噺あり 9 黒船のペリーが来た[百川(ももかわ)

文 窓樹


 百川は江戸で指折りの料亭で、その昔、ペリ─が黒船に乗って来日した時、会席料
理を一行にご馳走した店である。明治初年まで実存していた。
 浮世小路は、今の日本橋室町二丁目、中央通りをはさんで三越本店の斜め前、東レ
ビルと千石ビルの間の道のこと。その名の由来は、浮世茣蓙(ござ)を売る店があっ
たからだそうだ。
 物語は、この百川に百兵衛という田舎者が奉公にやってくる。客の魚河岸の若い衆
はこの百兵衛の田舎言葉が解からず、色々と間違いをおこす。やっと奉公人と認め、
常磐津の歌女文字(かめもじ)を呼びにやらせるが、百兵衛が連れてきたのが、鴨池
玄林(かもじげんりん)という外科医だった、という騒動物。
 この店が宣伝に創った落語とも言われている。
 浮世小路の角に福徳神社というのがある。それも駐車場の上にだ。以前は地面にあ
ったが、となりの銀行の依頼で土地を交換し、お稲荷様に引っ越してもらったそうだ。
 百兵衛が使いに行ったのは、長谷川町の三光新道。現在の日本橋堀留町二丁目、浮
世小路から徒歩10分、〔三光稲荷参道〕と標識があったので、すぐわかった。
 道幅は狭く、車がやっと一台通れる程。[天災]でおなじみの心学者〔紅羅坊名丸〕
のいた所でもある。
 勝手口や通用口が並ぶ、殺風景な参道で、落語国の名士が住んでいたとは思えない。
 百兵衛が訪ねた頃も、どこが誰の家だか、わからなかったのだろう。

2000・8・12 UP




ここに噺あり 8 爺々が茶屋[目黒の秋刀魚(めぐろのさんま)

文 窓樹

 茶屋坂は、三田二丁目にある急坂のこと。
昔、江戸から目黒に入る道に一つで、大きな松の生えた芝原の中を下る、九十九折
りの坂で富士山の眺めが良かった、と史跡説明板にある。
 坂名の由来は、百姓彦四郎の茶屋があったことから付けられた。三代将軍家光や八
代将軍吉宗が、鷹狩りの時、立ち寄った茶屋である。今でも、目黒区には鷹番という
地名が残っている。
 家光がこの彦四郎を「爺、爺!」と呼んだので〔爺々が茶屋〕といい、広重の絵に
もある。以来、将軍は目黒筋へお成りの際は、必ず茶屋へ立ち寄り、銀一枚を与えた
そうだ。十代将軍家治は、茶屋で団子と田楽を召し上がった。これが[目黒の秋刀魚]
の原話という説がある。
 寄席で[長屋の花見]が出ると春の気配を感じ、[目黒の秋刀魚]を聴くと夏の終
わりを感じる人も多いはず。落語家は季節を先取り、ネタを選ぶ。気の早い人は、正
月二之席に、もう花見の噺をやっている。
 以前、明石家さんまさんが本当に目黒に住んでいた。もともと落語家を志した人、
シャレたことをするもんだ。
2000・8・12 UP






ここに噺あり7 本郷かねやす[小間物屋政談(こまものやせいだん)]



文 窓樹

 本郷三丁目の〔かねやす〕は、江戸時代からの小間物屋で、口紅、白粉、かんざし
等、こまごました物を売っている。それが、小間物の語源でもある。
 この〔かねやす〕と芝の〔若狭屋〕が、江戸では指折りの高級小間物店であった。
 物語は、背負い小間物屋の小四郎が女房を江戸に残し、上方へ商いに行く。途中、
箱根の山中で、盗賊に襲われた若狭屋甚兵衛を見つけ、着物と金一両を貸す。若狭屋
は、小田原の宿で急死するが、袖の中から小四郎の住所の書かれた紙が出てくる。小
田原から小四郎の家主に知らせが来る。小四郎の着物と面差しが似ていることから、
家主は小四郎が死んだと勘違いする。
 やがて、女房のおときは小四郎の従兄弟の三五郎と再婚する。そこへ小四郎が帰っ
てきたから大騒ぎ。おときは三五郎を選び、小四郎は大岡越前守へ訴えて出る。大岡
様は、小四郎を若狭屋の入り婿にするという粋なお裁き。
 講談では[万両婿]というネタ。
〔かねやす〕は、兼康祐悦という歯科医が乳香散なる歯磨き粉を売り出したところ、
これが当たり、店を大きくした。芝神明前の「兼康」と本家争いがあり、本郷は〔か
ねやす〕と仮名に改めた。
 「本郷もかねやすまでは江戸の内」という古川柳がある。
 享保十五年の大火で、大岡越前は防災上、江戸城から今の本郷三丁目にかけて、塗
屋、土蔵造りを命じた。大きな土蔵のあった〔かねやす〕は目立ち、川柳が出来た。
 大岡様の業績は、町火消と小石川養生所の設立が知られているが、政談はほとんど
創作。お裁きの時は、毛抜きでヒゲを抜き、罪人と目を合わさないようにしていたそ
うだ。目が合うと情が移るというから、シャイな方だったのだろう。

2000・4・15 UP




 ここに噺あり 6 本郷東大の[妾馬(めかうま)]

文 窓樹

 落語に登場する殿様の名前は、赤井御門守が多く、禄高は十二万三千四百五十六石
七斗八升九合と一掴み半となっている。
 東大のキャンパスは、加賀前田家の上屋敷跡で、赤門は十一代将軍家斉の娘、溶姫
(やすひめ)が文政10(1827)年に嫁いだ時に建てられた御守殿門である。御
守殿とは、将軍の娘で三位以上の大名に嫁いだ者に対する敬称、またはその住居。


 物語は、お鶴という裏長屋の娘が殿様のお目にとまり、屋敷へ奉公に上がる。やが
て、世継ぎの男子を出産。兄八五郎が祝いに招かれる。酒に酔って無礼な口をきくが、
殿様に気に入られ士分に取りたてられる。ある日、使者として馬に乗った八五郎だが、
馬術の心得がなく、馬が勝手に走り出す。
 おめでたく、笑いあり、涙ありの作品で、演じ手も多いが、サゲまでやる人は少な
く、八五郎が屋敷に招かれる所で切っている。
 また、あたしはこのタイトルがなぜ[妾馬]なのか知らなかった。妹が妾奉公に上
がって殿の子を出産したおかげで、兄が士分になり馬に乗ったので、[妾馬]。わか
るまで、何年かかったであろうか。
 校内には、御殿下記念館というシャレた建物がある。創立百年の記念にできたもの
で、プール、レストランから美容室まで入っている。東大生であれば利用できるそう
だ。
 ある落語家が、この噺の主人公、八五郎を筋に入ってから政五郎と言ってしまった。
そのままかまわず政五郎で噺を進めたが、最後に『八五郎が出世いたしますおめでた
い一席』とやってしまった。お客はキョトンとしていたそうだ。

2000・4・2 UP





ここに噺あり 5 落合の[らくだ]

文 窓樹
 今回は落合の火葬場を訪ねた。
 落合の火葬場は、桐ケ谷、小塚原と並び、かなり古くからあった。場所は新宿区上
落合、道一本むこうは豊島区だ。
 物語は、本名を馬、仇名をらくだという乱暴者の家に、兄貴分が訪ねると、フグに
当たったらくだが死んでいる。そこへ屑屋が通りかかる。らくだに輪をかけた乱暴者
の兄貴分は「葬式の真似事をしたい」と言い出す。脅された人のいい屑屋は、家主や
長屋の連中のところへ酒や早桶を貰いに行くが断られ、仕方なく、死人にカンカンノ
ウを躍らせる。酒と早桶が届くと、兄貴分は帰りたがる屑屋に無理矢理に酒を飲ませ
る。酔いが廻るにつれ、屑屋が逆に兄貴分を脅し、二人で落合にらくだの死骸を担い
で行く。
 落合への道中、「ここは姿見橋だ。これを渡ると高田馬場。道は右へくねったり、
左へくねったりするが、つきあたって左へ行くと新井薬師。右へ行くと落合の火屋だ
」という件がある。今でもわかる道案内で、落語は実にリアルだ。姿見橋とは、面影
橋の別名だ。
 カンカンノウは唐人唄の一つで幕末から明治初期にかけて大流行した。当時、知ら
ない者はいなかったそうだ。
 以前、大分へ行った時、トラフグのコ−ス料理をご馳走になったことがある。中で
絶品だったのがフグ刺しで、醤油に肝を溶いて食べる。通常、肝は禁止されているが、
大分県だけは、条例で許可している。もちろん免許のある板前しかさばけないが…。
素人でも器用な人は自ら包丁を持ち、食べているそうだ。そのかわり食中毒も年に数
件ある。東京と違い、フグは安く手にはいる。料理の鉄人を目指すのか、味への探求
は計り知れないものがあるようだ。






ここに噺あり4 柳橋の[船徳]

文 窓樹
 今回は柳橋を訪ねる。[船徳]の舞台。
 浅草橋駅から徒歩五分。神田川が隅田川に合流する手前に架っているのが柳橋。川
には、溢れんばかりに屋形船が舫ってある。
 物語は、道楽の末、勘当の身の若旦那の徳兵衛が、馴染みの船宿の二階に居候。粋
な姿に憧れて船頭になる。浅草観音の四万六千日、他の船頭は出払って徳三郎しかい
ない。そこへ馴染み客が友達を連れてやってくる。「大桟橋まで乗せてくれ」と言う
客に、女将はしぶしぶ徳三郎をやらせる。船はぐるぐる廻ったり、石垣に寄ったり大
騒ぎ。ようやく陸に上がった客に、徳三郎は一言「船頭一人、雇ってください」。人
情噺[お初徳兵衛]の発端で、三年後に一人前の船頭となる。
 昔、柳橋の船宿は、芸者を呼んで遊ぶ座敷があったが、今は待合室ほどで、居候を
置けるスペ−スは見当たらない。
 毎年、隅田川花火大会の日は川一面に屋形船が並び、若手落語家が船に乗り込む。
よい場所を確保するため、三時頃には出航する。花火が始まるまでお客を退屈させな
いのが落語家の仕事だ。炎天下の船中だけに暑いのなんの。いよいよ花火見物となる
と、窓から見るだけに首がくたびれる。去年、歌る多姉さんが川沿いに住んでいるの
で、屋上で見せてもらったが、よく見えるし、涼しい。花火は陸に限る。
 以前、屋形船で一席頼まれた。お台場あたりに停めて、始めたが、船は停まってい
る方が揺れを感じる。気持ちが悪くなり閉口した。お客さんも、酔ってしまった。花
火も落語もやはり陸に限る。
1999・10・3 UP





ここに噺あり3 向島の長命寺[花見小僧]

文 窓樹
 今回は、長命寺と桜餅の山本やを訪ねた。「花見小僧」の舞台。
 物語は、ある大店の主が娘のお節に婿をとらせようとするが、お節は奉公人の徳三郎
と深い仲。ある日、娘と徳三郎の供をして向島へ行った定吉に、主は様子を聞き出そう
とする。なかなか口を割らないが、小遣いにつられ少しずつしゃべり出す。「ばあやと
四人で柳橋の船宿から船で三囲の土手に上がり、植半で食事。あたしが山本やで桜餅を
買って戻ると、お嬢さんは癪が起きて、奥の座敷で横になっていた。あたしが行こうと
すると、『お嬢さんの看病は徳どんに限るんだよ。気が利かないね』と言われた」と。
 主はこれを聞いて怒った。徳三郎は暇を出され、叔父の所へ預けられる。先代の円遊
師匠のが印象深い。これは[お節徳三郎]前半で、後半は[刀屋]という。
 桜の名所となると、上野や飛鳥山だが、上野の山は鳴り物禁止で騒げなかった。大店
の連中は、芸者を連れて向島で花見をした。
 桜餅の山本やは、享保二年に山本新六という長命寺の門番が、土手の桜の葉を塩漬け
にして始めた。文政七年に、31の樽で77万5千枚の葉を塩漬けにし、餅一個に葉を
二枚つけ、38万7千5百個売った記録がある。現在は、伊豆産の葉が三枚ついて一個
150円。
 長命寺は、寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りに出て急病になり、この寺の井戸水で薬
をのんだら、たちまち治ったのが名のいわれ。
 向島には花柳界がある。以前は噺家も座敷に呼ばれたとか。今では政治家の密談の場
となっている。






ここに噺あり2 新宿区新宿二丁目の元遊郭[文違い]

文 窓樹

 今回は新宿遊廓跡を訪ねた。現在の新宿二丁目。明治時代は東京府下豊多摩郡内藤新
宿大字角筈、といやに長い住所で、東京のはずれだった。
 新宿は四宿(他に品川、千住、板橋)の一つで、吉原につぐ盛り場であった。新宿の
繁華街と言えば、今は歌舞伎町だが、当時は新宿三丁目の交差点から四谷にむかう新宿
通りの両側に貸し座敷が並んでいた。
 物語は、新宿の女郎お杉が「義理の父と縁を切りたいから」と色男気取りの半七に「
二十両都合してくれ」と頼むが、半七は十両しかない。そこへ田舎者の角蔵が現れる。
お杉は「母が大病」と言って、角蔵から十五両巻き上げてから、下の座敷に待たせてい
た本命の芳次郎に二十両渡す。芳次郎は眼病で薬代
をお杉に頼んでいたのである。芳次郎が帰ったあと、お杉は手紙を見つける。芳次郎が
忘れていったもので、「眼病と偽りお杉からお金を騙し取ってくれ」という他の女から
の手紙であった。一方、二階では半七がお杉宛ての芳次郎からの手紙を見つける。何も
知らない角蔵だけが色男気取り。客と女郎が騙し合う廓噺の傑作である。
 この盛り場のはずれに成覚寺がある。文禄三年(1594)に建てられた新宿女郎の投げ
込み寺だった。女郎が死ぬと、着物から髪飾りまで剥ぎ取り、遺体を米俵にくるんで投
げ込んだ。その数三千体。境内に子ども合埋碑がある。「子ども」とは、遊女のこと。
 現在、このあたりはゲイバーが軒を並べている。会話が楽しく、ショータイムには歌
や踊りがあり、お客の中に歌手や俳優を見かけることもしばしばある。一度、ゲイ同士
が口喧嘩をしているのを見たが、その啖呵たるや見事であった。彼女(?)らは、自衛
隊出身が多いと言う。
                            1999・10・3 UP





ここに噺あり1 港区の愛宕山[天狗裁き]     

文 窓樹

 今回は、港区の愛宕山を訪ねた。[天狗裁き]の舞台。愛宕山は標高26メートルで、
頂上に愛宕山神社とNHK放送博物館がある。
 物語は、隣の旦那がヘビをまたいだ夢をみたところ、商売が大繁盛。熊さんの女房は
「お前さんも夢を見な」と、亭主を無理に寝かせる。ニヤリと笑う寝顔を見てゆすり起
こすと、熊は夢を見ていないと言う。「女房に隠し事をするのかい」と夫婦喧嘩。仲裁
にはいった兄弟分が「女房に話せなくても、俺になら話せるだろう。どんな夢を見た」
と大喧嘩。今度は家主が来るが、家主にも夢を話せず奉行所へ。白州で「奉行にならば
言えるであろう」と問い詰められても口を割らない。そこへ一陣の風が吹き、愛宕山の
てっぺんに運ばれる。見ると天狗が仁王立ち。またまた天狗までが夢の話を聞きたがる。
元は上方噺で、天狗の現れる山は鞍馬山になっている。
 愛宕神社は火伏せの神様として信仰されており、江戸名所俗謡に"伊勢へ七度び熊野へ
三度芝の愛宕は月まいり"というのがある。また、高層ビルのない当時は、見晴らしの名
所でもあった。
 神社へ登るには、男坂、女坂、新坂がある。
 男坂は八十六の石段でかなり息が上がる。脇に"トレーニング禁止"の立て札があるが、
星飛雄馬もタイガーマスクももうウサギ跳びはしないだろう。また、この坂は寛永年間
に馬術の名人曲垣平九郎が馬で石段を上下したことから、出世の石段と名づけられた。
 NHK放送博物館は愛宕放送局跡で、時折、貴重なビデオ上映会を催している。もち
ろん落語のテープもある。
 愛宕山は東京の真ん中とは思えないほど静かで、木々も多く、天狗が出そうだ。一連
のオウム事件を裁いてもらいたいものだ。                           
1999・9・26 UP