圓生物語 |
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圓生物語・四の巻 プログラム |
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圓生二十三回忌 ================== |
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近日真打の早披露 |
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六代目 圓 生 物 語 四 の 巻 |
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平成一三年九月三日(月) 午後六時開演 国立演芸場 |
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六代目 圓生物語 四の巻 大番組 |
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追悼 圓生二十回忌 圓生著作の朗読 青坂章子 ちょっと口上 窓門揃い |
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一、近日真打熱演 | ||||
夢八 助平 改め 一琴 お花半七 窓樹 改め 萬窓 ちりとてちん 小のり 改め 禽太夫 |
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一、近日真打座談「トークて近きは」 | ||||
おしゃべり一琴 萬窓 禽太夫 司会 三遊亭吉窓 |
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一、男の遊び二題 | ||||
錦の袈裟 柳家 小三治 百年目 三遊亭 圓窓 |
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嗚 呼 圓生二十三回忌 |
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三遊亭 圓窓 |
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時の流れは早いものというが、とくに師を思うときはことさらその早さを感じてな らない。 命日のたびに思い出すことは多々あるが、その一つに、やはり故人となってしまっ たおかみさんが言っていたことは忘れられない。 「お父ちゃん(圓生のこと)の芸が落ちたと思ったら、あたしに言っておくれ。引退 をさせるから」 そう言われても、簡単には出来ない相談である。 どんなに名人でも高齢になれば、体力、気力の衰えとともにその芸も低下してくる のは当然。しかし、弟子がそれを目の当たりにしたとしても、「師匠。おやめなさい」 とは言いにくい。芸の質は落ちたとしても、客の前で、高座の上で、一席やりたいの が噺家の性。それに向かって「おやめなさい」は、「お死になさい」と言うのと同義 なのだ。 あたしは四二年間、名人の晩年の高座を悲しく聞くことはたびたびあったが、きれ いに引退をした名人を知ることなく過ごしてきた。 師匠は誰にも衰えを感じさせぬうちに、つまり全盛のときに高座で倒れ、あの世に 逝った数少ない名人として歴史に名を残している。言い換えれば、芸に関して弟子に いやな思いをさせなかった名人かもしれない。 私が入門したとき、師匠は今のあたしの歳だった……。 |
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合掌 | ||||
「十 七 文 字 と 圓 生」 |
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今はただ飯食うだけの夫婦なり 咄し家をふと困らせる馬鹿笑い 六代目 圓生 鳴けるだけ鳴いて落ちけり秋の蝉 暉峻康隆 |
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圓 生 物 語 を振り返って |
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企画制作一同 |
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毎回、満員の聴衆を集めての落語会のその熱気は、そのときだけではなく、その会 場だけではなく、どこへでも、いつまでも伝わって行くということを圓生物語を公演 して実感いたしました。 まことに、ありがとうございます。 甘えて、楽屋裏話をさせていただきますと……、御難つづきでした……。 圓楽・圓窓の一門合同公演として、一の巻で毎年九月三日にガスホールで開くこと を誓ったものの…。 二の巻にはホール側からいやがらせ的な料金を請求され、「次回は先約が入ってい ますので、他でやって」と。トホホホホ、でした……。 圓生の死後「圓生の名は止め名にします」と署名した一人の圓楽さんが、圓生の直 弟子たちには一言の相談もなく、自分の弟子の鳳楽を次の圓生にしよう、と根回しに 走って失敗したのもその頃でした。 三の巻からは会場を国立演芸場。圓楽夫人から「九月三日はスケジュールに入って おりません」と理由の一言もなくキャンセルのファックスがきて、制作サイドは唖然 としてしまい、あいた口が未だにふさがっておりません。 そして、今回の四の巻。事前に手に入れたのが「八月二五日 追善 圓生二十三回 忌圓楽一門会 国立演芸場」のチラシ。 すぐに鳳楽に「二十三回忌に関しては圓生物語と相談してほしかった。企画の立て ようがあるから」の意のファックスを送ったが返信はなし。再度、ファックスをする と、やっと「師匠の圓楽の決めたことですので、弟子のあたしにはどうすることもで きません」との返信。 そんなことから、今回、圓楽一門と離れて小三治一門の手を借りての圓生物語とな ったのです。 愚痴めいて、すいません。 良識を持って理解を示してくださる方もあろうかと信じ、ここに記しました。 |
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父と圓生師匠と圓窓師匠と私 |
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ヒノキ新薬且ミ長 阿部武彦 |
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昭和二〇年。まさに敗戦を目の前に控えた初夏。秋田県増田町満福寺において、寄 席の芸が疎開児童や地元の人たちを対象に開かれました。 うろ憶えの記憶を辿ると、落語は春風亭柳好、音曲を柳家三亀松、他に独楽回し等 の芸を見たのが私の落語や寄席との出会いでありました。 父が疎開先の地元へのお礼を兼ねて、子供達の慰問の意味で、すでに開かれる事の なくなっていた寄席の芸人さん達を、背負えるだけのお米を条件に連れてきたという のが事の起こりでした。 正月の新宿末広亭で両親の間に挟まれて、三亀松師匠の艶話に笑うに笑えず、困り 果てたのが中学時代であったのでしょうか。 思い返せば我社の二〇周年の折に、圓生師匠に一席お願いする事になったのは、そ んな幼児体験のまさになせるわざ、なのではないでしょうか。 当時、会社の創立記念には経済・時事・文化の講演がプログラムされるのが常識で した。「なぜ記念講演ならぬ記念寄席なのか」と問われ、明確な答えが出来なかった ものの、本人には何の違和感もなかったというのが本音であります。 その後もやはり社の行事で、圓窓師匠に一席お願いしたのがご縁で、今では一文オ ペラ(素人のオペラ稽古会)のメンバーとして、”ナットーニ圓窓”(納豆に似てい る、即ち粘っこい歌い方)の芸名で短期間に目覚しい進歩、一文オペラの中核メンバ ーとして、落語をやめて歌に走るのではないかと、周りを心配させるほどの熱心さで もあり、その上達は先生が驚くほどのものであります。 それはまさに”一芸に秀でるものは・・・”の一言ではないかとの感が致します。 遡れば、圓生師匠ゆずりのDNA、芸に対する真摯な率直な取り組み方なのではな いでしょうか。それなくして、圓窓五百噺の快挙もありえなかったのではないか、そ んな気が致します。 物語は語りつがれるもの。「圓生物語」は「圓窓物語」として語りつがれていくこ とに、万感の思いと拍手をおくりたいと思います。 |
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圓 窓 ひ と り 言 |
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文 圓窓 | ||||
「朗読の青坂章子さん」について あたし(圓窓)は圓生著作の朗読を弟子にやらせようと思ってテストをしてみた。 が、本を持つ手は震えてページもめくれず、その上、朗読の声や口調が圓生の物真似 になり、圓生の真摯さを表現できそうもないので、あきらめた。 そんなある日、芝居の稽古場で青坂さんの台詞の稽古を見聞して、思わず「この人 だ!」と叫んで決めてしまった。女のほうが却ってより良く圓生を思い起こさせるも のを発揮するのではないか、と感じさせるほど達者な役者。あたしとは日舞の姉弟弟 子でもある。 「三人の近日真打」について 東京だけで落語家の数は五百人。史上最多記録だ。大量真打披露も致し方のないと ころだろう。しかし、この三人はそんじょそこらの大量真打とはちょっくら質が違う。 あたしは彼らに大いに期待している。その期待を裏切ったなら、祝儀を返してもら うつもりでいる。冗談ではない、本当だ。 |
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近 日 真 打 の 横 顔 |
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紹介者 萬窓 | ||||
柳家 一琴(やなぎや いっきん) |
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昭和63年5月 柳家小三治に入門し、桂助。 平成 4年5月 横目家助平で二つ目昇進。 平成13年9月21日 柳家一琴を名乗り、真打昇進。 表情が豊かな高座で、八っつぁん、熊さんから横丁の隠居、長屋のおかみさん、侍 まで器用に演じる。また大阪出身を活かし上方弁も達者にこなす。マメな性格で、毎 日更新しているホームページは充実した内容で好評。余芸の紙切りは一見の価値あり。 |
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三遊亭 萬窓(さんゆうてい まんそう) |
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昭和61年10月 三遊亭圓窓に入門し、窓樹。 平成 2年 9月 二つ目昇進。 平成13年 9月21日 三遊亭萬窓を名乗り、真打昇進。 趣味は料理で、自信作は10品を超えるそうだが、噺の方も意外なスパイスを加え、 独特の味付けがある。女性の登場するネタをよく演じるが、最近、噺に艶が出てきた。 当人曰く「明るく、楽しく、激しい高座を心掛け、料理同様に自信作を増やしたい」 |
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柳家 禽太夫(やなぎや きんだゆう) |
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昭和58年 4月 柳家小三治に入門、小のり。 昭和62年 9月 二つ目昇進。 平成13年 9月21日 柳家禽太夫を名乗り、真打昇進。 「お客さまにアドレナリンを出させ、酔わせるような噺をやりたい」と当人が言うよ うに、常に手を抜かない、魂のこもった高座をつとめる。暴走族出身とは思えない温 厚な人柄で、噺の登場人物がほのぼのとしているところに味がある。滑稽噺から人情 噺までこなし、持ちネタも多い。 |
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2002・9・16 UP |