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 乙宝寺(おっぽうじ)若住職 逝去

文 三遊亭 圓窓

 あたしの創作落語[写経猿]を聞いた人も、何人かはいると思いまして、一言……。
 その噺の出所は、越後の乙宝寺へ夫婦の猿がやってきて、写経をねだったという伝説の
ある新潟県中条町の乙宝寺という真言宗のお寺。

 先月の6日、そこの若住職は50歳という、僧としての働き盛りに、胃癌のため亡くな
りました。

 若住職は創作のため取材に出向いたあたしを、熱意をもって迎えてくださり、由来話を
聞かせてくださっただけでなく、貴重な資料をも提供してくださったのです。
 若住職からのご厚情はそれだけにとどまらず、あとあとまで、面倒を見てくださって、
その噺の発表をお寺と中条町の二箇所で企画してくださり、また、東京で公演の折は、二
度も足を運んでくださった。
 そのうちの国立演芸場での公演では、檀家の衆を60人もバスに乗せて上京。客席から
の檀家衆によるご詠歌で幕が開くという感動的な場面にまで参加してくださったことは、
圓窓という噺家にとっては、一生涯、忘れられない落涙の思い出となりました。
 あたしの考案もいれて作ってくださった、抱き合った夫婦猿(離れザル)の付いた根付
や中条名物のチューリップの寄贈を受けたときは、夢のようでした。
 その上、お寺の境内の猿塚の脇に、「この夫婦猿の伝説を圓窓師匠が落語にしてくださ
った」と記した立て札を立ててくだっさたことは、たぶん、あたしの孫子の代までの唯一
の自慢になるでしょう。
 あたしは、創作落語、仏笑落語、民話落語の数少ない大事な理解者を失ってしまった。
 若住職へは、なに一つ、恩返しも出来ないうちに先立たれてしまって、悔しくってなら
ない。
 NHKテレビで[写経猿]を放送したときだった。
「見ましたよ。師匠、ありがとう」
 と、電話口で若住職はあたしにお礼を言ってくださった。
 その子供のような弾んだ声は、未だに耳から離れないで、こびり付いている。
 その声の、その人が亡くなったなんて、誰が信じられようか……。
 乙宝寺へ電話をすれば、すぐ出てきてくださるような気がしてならない。
1999/12/25 UP
       [写経猿]の梗概は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺ダイジェスト/写経猿
       [写経猿]の高座本は、圓窓五百噺全集/創作落語/仏笑落語/写経猿



感想 ・ 意見 ・ 質問


[夢現実焙茶湯煙]を観賞して、目から鱗が


(((((((((((((((
送信メール 樋口哲弥から 圓窓師匠へ。               1999・12・8

 昨日の円窓さんの落語は、最高でした。
 あんな落語があるのかと、目からうろこが落ちる思いです。
 昨日のような落語を見て落語ファンがもっと増えればいいと思っております。

)))))))))))))))
返信メール 圓窓より 樋口哲弥さんへ。               1999・12・9

 ありがとうございます。
 落ちるのは落語の結末だけだと思ってました。(笑)まさか、鱗まで落ちるとは、光栄
です。
 去年、第1弾を演ったとき、「あたしは、圓窓の『文七元結』を聞きたかったのに」と
いう、古典落語至上主義者からEメールがきましてね。ちょっと、寂しかったですよ。
 歌舞伎にもいろんなジャンル(舞踊、狂言や能のアレンジ、芝居などなど)があるよう
に、落語にもいろいろあるのです。
 新しい落語ファンがどんどんと増えて、広く楽しんでもらえることを願っての企画なん
です。
       
圓窓
1999・12・30 UP
[夢現実焙茶湯煙]の原作は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺ダイジェスト/ほうじの茶
[夢現実焙茶湯煙]の感想は、寄席集め/国立演芸場/ただしろう寄席見聞読
   



 [胸の肉]の[難語散策]の <胡散臭い>に補足

1999・10・ある日
文 泉啓一
 考察[胸の肉]の[難語散策]の解説とてもためになりました。
 落語は、今では使われなくなってしまった文化、生活の香り、様々なものを小生に教え
てくれます。又、今回のように解説を読むことにおいて師匠の苦悩の一端が、かいま見え
る思いで、とてもありがたく読ませていただきました。
 解説の中のことについて、ちょいとつけ加えておきますので適当に読んで見て下さい。
 
<胡散臭い>
 江戸時代、ウサン(胡盞)と呼ばれる黒いうわ薬の茶碗が、もてはやされたことがあっ
た。しかし、その茶碗、高麗の焼き物といわれたが、実際には中国製のものが多かったこ
とから,偽者の茶碗を「うさんくさい」と呼ぶようになり、後世,疑わしい物のことを呼
ぶようになった。
<工面>
 師匠、すいません。
 小生の家の書物には、工面の語源を調べられる物は、ありませんでした。 能面匠が、
苦心して面を創ったのがはじまりか、作り笑いで金の工面をしたのが始まりか、まったく
もって分かりませんでした。
 今後の宿題ってことでお願いします。
 
 役にたたずにすいません。
 今後も師匠の創作落語楽しみにしております。
 それでは、又。
1999・12・30 UP
[胸の肉]の高座本は、圓窓五百噺全集/創作落語/演劇落語/胸の肉
[胸の肉]の梗概は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺ダイジェスト/胸の肉
[胸の肉]の関連は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺考察集/考察・胸の肉
[胸の肉]の関連は、評判の落語会/圓窓系定例落語会/圓窓コミカレ五百噺/コミカレ
見聞読1

[胸の肉]の関連は、評判の落語会/圓窓系定例落語会/圓窓一門会/99年度の会/



[胸の肉]のキリストと観音の慈悲 4

(((((((((((((((
送信メール 川崎加奈子から 圓窓師匠へ。              1999・10・30
 
 師匠からのメールを読んで、目からうろこが落ちる思いがいたしました。
 出典をさがすことに一生懸命になって、言葉の意味をかみしめることを忘れていたよう
な気がします。
 本末転倒ですね。
 気づかされてよかったです。ありがとうございます。
    
加 奈 子
)))))))))))))))
返信メール 圓窓より 川崎加奈子さんへ。              1999・10・31

 加奈子さんの目から鱗を落とすほどの力は持っておりません。(笑)
 落とした鱗もそのまま捨てずに、どこかへ保存しておくのも、己れの歴史を振り返ると
きにいいかな、なんて、格好よく思ったりして、、、、、、、、。
圓 窓




[胸の肉]のキリストと観音の慈悲 3

(((((((((((((((
送信メール 川崎加奈子から 圓窓師匠へ。              1999・10・27

 ここのところ、師匠には、「調べる気があるのか?」とお腹立ちか、あるいは忘却の彼
方か、どちらかではないかと思います。
 報告が遅れて申し訳ございません。
 師匠のためではなく純粋に自分のために、早速調べにかかりました。
 新約聖書の半分から後の部分に書いてありそうだと当たりをつけ、きのうまでに最後ま
で読んでみたのですが、まさしくその言葉と言える部分は、見つけられませんでした。
 強いてあげれば、「エペソ人(びと)への手紙」第5章第1〜2節や「コロサイ人への
手紙」などに、繰り返し繰り返し「神に愛されている子供らしく、神にならうものとなり
なさい。愛のうちに歩みなさい」「神に愛されている者として・・・」というのはあるの
ですが。
 問題の「神様は、決して私たちに善い行いをしなさいとはおっしゃいません。でも、神
様が私たちを愛し、どんなにたくさんの恵みを与えてくださっているかを知ったなら、私
たちも同じように、他の人を愛さずにはいられないのではないでしょうか」というこの部
分は、牧師先生のお説教(”メッセージ”と呼んでいます)で聞いたか、何かの解説の本
で読んだのかもしれません。もう少し調べてみます。
 そんな訳ですので、最終報告までもう少し、忘れていらしてくださいまし。
                                  加 奈 子

)))))))))))))))
返信メール 圓窓より 川崎加奈子さんへ。              1999・10・28
 
 あたしは、信心家でもなければ、信仰心も意識しない人間です。
 それにしても、「神様は、決して私たちに善い行いをしなさいとはおっしゃいません。
でも、神様が私たちを愛し、どんなにたくさんの恵みを与えてくださっているかを知った
なら、私たちも同じように、他の人を愛さずにはいられないのではないでしょうか」
 いい言葉だ。
 聖書にある、なしは、関係なしですよ。
 ときどき、仏像を見てて、「黙して語らず」を感じるんですよ。
 神や仏は、黙って行動しているだけなのかもしれないって。
 圓窓語録に「黙って咲き 黙って散る」ってぇのがある。(笑)
 花を見ても、それへ神仏が重なってくることがあるんです。
圓 窓




胸の肉]のキリストと観音の慈悲 2

(((((((((((((((
送信メール 川崎加奈子から 圓窓師匠へ。              1999・10・22

 もうひとつ言えば、「シャイロックとアントニオ」を「清六と安藤似蔵」にした師匠は、
ものすごいと思いました。
 まるでシェイクスピアが「清六と安藤似蔵」になることを予想して元の名前をつけたか
と思うほどぴったりにゴロが合ってかつ日本名としてもごく自然で、うなってしまいまし
た。
加 奈 子

)))))))))))))))
返信メール 圓窓より 川崎加奈子さんへ。              1999・10・23
 
 名前の件ですが、「清六と安藤似蔵」にした、あたしの働きではありません。
 昭和五年、講談社発行の「評判講談全集・第一巻」に西尾麟慶の口演としてベニスの[商
人]は載っています。もちろん、講釈です。ストーリーは原作をなぞるように進行して、
舞台もそのままベニスにしてありますが、名前はシャイロックが賽六、アントーニオが安
藤仁蔵としてあります。
 それを踏まえて、あたしも二人の名前は、清六、安藤似蔵としました
圓 窓




[胸の肉]のキリストと観音の慈悲 1

(((((((((((((((
送信メール 川崎加奈子から 圓窓師匠へ。              1999・10・20

「胸の肉」をプリントアウトしました。といいますのは、ちょっとじっくり読みたい部分
があったからです。
大岡越前守が観音様の慈悲について清六を説くところです。
 じっくり読みたい理由のひとつは、スクリーンの斜め読みではよくわからなかったから。
読んでわからないものが同じ言葉で聞いたらわかったり、その逆があったりします。是非、
「聞いて」みたいと思いました。
 もうひとつの理由は、よくわからないと思いながらも、下記の話に似てるなあと思った
から。
「神様は決して私たちに『善い行いをしなさい』とはおっしゃいません。でも、神様が私
たちを愛し、どんなにたくさんの恵みを与えてくださっているかを知ったなら、私たちも
同じように、他の人を愛さずにはいられないのではないでしょうか」
 "知らなくても知っててもいいこと 難語散策"を読んで、やっぱりという気持ちでした。
聖書に上記の意味の言葉があったような気がします。
 大岡様の言いたいのは、つまりそんなことなのだと勝手に解釈しました。
 聖書の神様を観音様に替えてもすっぽり話がまとまるところが、非常に興味深かったで
す。
 聖書の”どこの章の何節”と言えないところが情けない(クリスチャン仲間に知れたら
大変です)ので、これから調べます。
 尚、上の言葉は私が勝手にならべたもので、聖書そのままではありません。念のため付
け加えます。
加 奈 子
 
)))))))))))))))返信メール 圓窓より 川崎加奈子さんへ。         1999・10・21
 
 嬉やな。[胸の肉]の感想第一号かな、、、、。
 ありがとうございます。
 あたしの知っている(ったって、僅かなもんですが、、)ところを書きます。
 
*****************
奉「清六。奉行はこう思うのじゃ。慈悲というものは義理や務めによって、強いられるも
 のではない。言わば、天より降り来たって、自ずから大地を潤す恵みの雨のようなもの
 じゃ。祝福は二つ重なっておっての。慈悲は与える者と受け取る者とを共に祝福する。
  これこそ、最上の者が所有しうる最上の物。天子にとっては三種の神器よりもふさわ
 しい天なる物の印じゃ。天子の手にする錦の御旗は、仮の世の権力を示すにすぎない。
 つまり、それは畏怖と尊厳を示すための現れであって、そこにあるのは天子に対する恐
 れの念でしかない。だが、慈悲というものは、この錦の御旗による権力支配を遥かに超
 え、天子たる者の心の玉座にあって人を治める。つまり、それは天にまします神ご自身
 の現れなのじゃ。従って、この世の権力が神の力に近づくのは、慈悲が正義を和らげる
 ときじゃ。
  だからこそ、清六。そのほうが正義を求めるのは、ようわかる。が、しかし。よう考
 えてみよ。頑なに正義ばかり求めれば、人間だれ一人、救いには預かれまい。そこで、
 我々は慈悲を施せと教えるのではなかろうかのォ。
  こういう話をするのも、清六。そのほうの求める正義を和らげようと思えばこそじゃ。
 だが、清六がどうしても『否』と言うのであるならば、厳しいこの南町奉行所の白州は
 止むを得ず、そのほうの申し出通り、この医者に心痛苦痛なる裁きを下すことであろう」
                               *****************
 
 上記のものは、[ベニスの商人]にもあります、有名な法廷の場で、判事に変装したポ
ーシャの言葉です。
 ある役者さんが「ポーシャの弁論といって、稽古で喋らされました」ということです。
 とくに、
「頑なに正義ばかり求めれば、人間だれ一人、救いには預かれまい。そこで、我々は慈悲
を施せと教えるのではなかろうかのォ」
 というところは聖書にもある言葉だそうです。
 あたしはキリスト教はほとんどわかりませんが。
 日本の天子に直すのは楽しかったです。
 でも、覚えるのが大変で苦労しました。
 結末近くの観音様を挿入した台詞ですが、[ベニスの商人]にはありません。
 PCに打ちこんでいるうちに、観音様が出てきて、気がついたときは涙をこぼしながら、
キーボードをたたいてました。
 キリストも観音も慈悲ということを多く説いてます。
「神様は、決して私たちに善い行いをしなさいとはおっしゃいません。でも、神様が私た
ちを愛し、どんなにたくさんの恵みを与えてくださっているかを知ったなら、私たちも同
じように、他の人を愛さずにはいられないのではないでしょうか」
 これ、いい言葉ですね。
 いずれ、なにかの創作のどっかで使いたくなりましたね。
 載っているのは聖書のどこですか、早速、調べてください。
圓 窓
[胸の肉]の高座本は、圓窓五百噺全集/創作落語/演劇落語/胸の肉     
[胸の肉]の梗概は、圓窓五百噺付録袋/圓窓五百噺ダイジェスト/胸の肉