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第506回 『 三 越 落 語 会 』 |
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2002・3・27(水) 18:00 開演 日本橋 三越劇場 |
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圓窓師匠の[火事息子]に見た 芸を掩い隠す芸 |
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文 野火助 |
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まず、三越落語会という落語会についてですが、これは私にとっては思い出の、と 申しますか、ちょっと特別な落語会なのです。 というのも、私が今のように落語をナマで聞くようになった一つのきっかけという のが、昨年の第500回記念の三越落語会だったからです。 その時の目当ては、小さん師匠とか、文治師匠という大御所でして、一度は聞いて おくべきだという一般教養的興味で聞きに参った訳なのです。 ところが、その際に聞いた圓窓師匠の[五百羅漢]にいたく感動しまして「ああ、 落語っていうのはいいものだなあ」とそれまでの単なるスノッブな懐古趣味のイメー ジを払拭された次第でして・・・ それからというもの、窓門の方々はもとより、色々な噺家さんの高座を寄席、落語 会に関わらず、月に最低2度は聞きに行く様な数奇者になってしまったというわけな のです。 というような私の個人的な経緯はどうでもいいので、肝心の第506回三越落語会 について書かせて頂きます。 圓窓師匠は、最近では五百噺も貫徹され、かつての古典・人情物の第一人者という よりも、民話や説話を落語仕立てにする等のご活躍で、今や「創作落語の圓窓」が表 看板になりつつあることは、今更、私なぞが指摘するまでのこともありません。 その圓窓師匠の古典ですから、聞くほうも気が引き締まる感じが致します。ですか ら、こちらはまるで往年の先代文楽師匠や圓生師匠の高座を聞くような思いで背筋を 伸ばしていたところ、あの、爆笑のマクラで見事にこちらの構えを崩されてしまいま したのが、まず第一の感動です。 いや、身構えていたのは私だけだったのかも知れませんが(笑)。 マクラというのは、色々な効用や役割があるわけで、噺家さんはその本題に入る前 のいくばくかの時間でさまざまなことを思い巡らすわけです。 今回の圓窓師匠のマクラは、マクラの機能としては非常にオーソドックスであった マクラを丸々くすぐりと本題への導入として使えるのは、予め演目が決まっている落 語会だから出来るのかも知れません。 が、それにしても最近これだけの手間と力をかけたマクラに、私はついぞ出会った ことがありません。 寄席ならばこのマクラだけでゆうに一席分に相当する程の中身の濃さ、それになに よりあれだけ笑わされてしまったという満足感は、師匠の噺家としてのエネルギーレ ベルの高さを今さらながらに思わせるものでした。 中身は要するに時事ネタですね。しかも、今この人を話題にしなくてどうするとい う、時の宰相、小泉純一郎ネタ。 ところが、これが単なる時事ネタではなくて、ちゃんと本題の[火事息子]のイン トロになっているという工夫があるのです。 キーワードは小泉さんが貴乃花に言ったという「カンドウした!」 「感動−勘当」に掛けるんですが、このネタをすぐに客に悟らせないように、貴乃花 というこれまた絶好のネタのデパートみたいな有名人を角界の若旦那に見立てて、渦 巻きのようにその駄洒落のヒモを遠くからぐるっと巻くように流していく。 最初はゆっくりと、そして、段々早く徐々に核心に近づけていき、ストンと落とす。 この呼吸というか、間合いが本当に絶妙だったのです。 こうやって文字で書くと、このぐるぐると引き回されて、ひょいと足払いを食う快 感がまったく伝わらないので、実に隔靴掻痒の極みなんです。 が、この感覚がそれはそれは素晴らしい大爆笑、理屈で笑う笑いではなく、もっと 人間の根源的な生理的に起因する笑いを引き起こすのです。 加えて最初の爆笑が収まらないうちに、畳みかけるように貴乃花のおっ母さんのス キャンダルでもって駄目押しに押すという徹底ぶり。 いや、実は「私が鈍いだけで、おめでたく一人ウケしているだけだったりして」と も思ったのですが、あとから思い出しても、その時の会場のウケ方から測る限り、私 がボーッとしていただけという訳ではないことは確かなようです。 こう言っちゃなんですけど、こういう時事ネタ、スキャンダルネタの突っ込みがキ レるということは、演者がそれ相当に性格が悪くないと出来ないと思うのです(笑)。 いえ、これは決して師匠をクサしているんではなくて、風刺、パロディという些か ブラックな味を持つ笑いには、間違いなく「悪意」の才覚が必要だと思うからなので す。 人がいいだけではこういう笑いは作れません。ですから、芸人さんというのはある ていど、人が悪くなくっちゃいけない部分があると思うんですね。 私が思う圓窓師匠の魅力には、単に、四角四面の小言や蘊蓄、寺や仏さんの話ばっ かりじゃなくて(笑)、こういう「人の悪さ」をちゃんと備えていて、シニカルな笑 いを見せる芸風をちゃんと持っている、という点もあるのです。 駄洒落、地口というギャグは、一般に笑いの世界では格下と見られがちですが、そ れがツボにはまったときには恐るべき破壊力を秘めていると思うのです。 にも関わらず、駄洒落に対する評価が厳しいのは、駄洒落は先読みされやすいこと、 これは手品のタネが見えているのと同じで、下手をすると苦労した仕掛け全体が全く の水泡と帰してしまいます。 中には、わざとばれや易いネタでお約束の失笑を誘うという使い方もあるでしょう が、これは笑いのエネルギーが成功したときと比較になりません。つまりは小技です。 また、駄洒落のレベルとタイミングも問題です。 一部の客にしか分かって貰えないような難度の高い洒落では、会場全体を掴むわけ には行きません。 逆に簡単すぎると前述の先読みされてしまう危険性がある・・・ 客層のレベルを見抜いて、慎重な複線を張り、しかも絶妙なタイミングでひっくり 返す(長すぎてもダレるし、早すぎても客の集中力が溜まらない)。この洒落のレベ ルと、落ちに持っていくまでの時間配分、これらの条件の最大値を得るレンジはひど く狭く、このターゲットにうまく落とし込むのは相当な熟練が必要なのではないでし ょうか。 しかも、圓窓師匠は一発だけ落とすのではなく、その笑いが収まらない内に立て続 けに2度、3度と連続して引っかけるのです。 もう会場は完全に師匠の掌中に捉えられていましたね。この一連のマクラは笑いを 取りに行く方法としては実に正統派なのですが、失敗すると結構ダメージが大きい冒 険でもあったわけです(でも師匠くらいになられると、場の雰囲気によって、次策、 次々策をちゃんと用意しておられるのでしょうが・・)。 協会の理事であられる程年配(失礼)の大看板が、こういうしんどい正攻法を仕掛 けてくるガッツというか、チャレンジ精神に、私はいたく感動するものです。 何だか年寄りの説教みたいになってイヤですが(笑)、若いモノは何をしとるのか ッ! と言いたくなりますな。 落語の凋落とか、地盤沈下とか御託を並べる前に、ちゃんとこんな具合に捨て身の 努力と工夫をしているのかッ!と、なんだか小池一夫先生の劇画みたいな口調になっ ていますが(笑)。 (圓窓注:そのマクラの要約「双子山部屋の若旦那の貴乃花が怪我をおして優勝した とき、総理杯を渡す小泉首相が『カンドウした!』と言って評判となった。貴乃花は その一言に嬉しくなって泣いたとか。 相撲界は甘いもんですね。我々、落語の世界では、若旦那が『カンドウした』と言 われると、家にいられないことをいう。 相撲部屋の若旦那はそういう解釈ができないから、未だに部屋にいるよ。代りにお っ母さんが出て行った。 小泉さんはおっ母さんに『あなたのことではない』と言ったとか」) [火事息子]の方は、思いきりマクラで客を掴んでおいて、最初の大名火消しと定火 消しの違いの解説をさらりと流して、土蔵の目地塗りの処では高所恐怖症の番頭の所 作でまたまた笑わせました。 ここでまた感心したのは、番頭が若旦那に帯の端を折れ釘に引っかけられて中ぶら りんになった様が、本当に空中でぶらぶらして見える処です。 もちろん、いくら圓窓師匠でもここで[猫忠]で演じた宙吊りをやらかすわけにも 行きませんので。(笑)ですから、座ったままで演られるんですが、これが本当に体 全体が振り子のようにぶらんぶらんして泳いでいるんです。 これも当然のように見逃してしまいがちですが、緻密な芸の発現だと思いました。 後半の親子の情愛の表現も、父と母の態度の違いをハッキリ対象化させつつ、その 根底には同じく子供を心配する気持ちがあることを見せる、二段重ねの芸を演らなけ ればならない難しさ。 これも、大旦那の情愛を「着物や金を家の外に捨てておけ」という処で初めて見せ るのではなく、番頭に息子が来ていると知らされた瞬間から、座敷に引き入れて他人 行儀に説教する時から既にその隠しきれない親心が見えていなければならない。 だけれども、それをこれ見よがしに演ってはいけない、表情や口調で簡単に遣い分 けてはわざとらしくなる・・非常に微妙な芸をここでは要求されると思うのです。 それを圓窓師匠は、大旦那の外面はあくまで頑固で冷徹な親父の型を崩さずしてそ の裏側を言外にちゃんと見せているのです。 泉井久之助博士という言語学の碩学が、その師匠である広辞苑の編者で有名な新村 出博士を評するのに、ラテン語の「アルス・アルテ・ケラートゥル(Ars arte celatur) −芸が芸によって掩い隠されている−」なる一句を引いて師の著述の至芸を讚えてい ます。 この「芸が芸によって掩い隠されている」という言葉は、圓窓師匠の芸においても 全く当てはまるのです。 先に昨年の[五百羅漢]の思い出を述べましたが、あの噺も、「一言も話せない女 の子の存在を最も浮き立たせる」という"言外の表現"の技を使っておられます。 落語と言えば舌先三寸というのが世間の通り相場ですが、「実は話芸と言う芸はも っと深いものなのだ。噺家のマクラで言う様に、ただパァパァ喋ってりゃいいってぇ ものでもないんだ」ということです。 それは、悲しい場面を「悲しい」という言葉を使ったり、これみよがしに泣いて見 せたりするのは時として野暮になるということ、その不出来に陥らないためには、ま さに「芸によって芸を掩い隠」さなくてはならない技術が要求されると思うのです。 そして、圓窓師匠は実にさりげなくその芸を見せていらっしゃる。 これは私の個人的な趣味趣向の話なのかも知れませんが、いわゆる熱演型の人情噺 で、まさに高座で泣かんばかりに体を二つに折って苦しみ嘆く様な、絶叫にまみれた 泣かせの演出というやつが、私はどうも駄目なのです。 演者が熱演すれば熱演するほど引いてしまう。勘弁してくれ〜と思ってしまうので す。 いや、実際、他のお客、特に涙もろいご老人には十分ウケているとは思うのですが、 私は、落語はどうせ三尺四方の狭い場所から動けないんだから、わざわざ田舎芝居み たいな大立ち回りをしなくたってよさそうなもんだ・・と思うのです。 ですから、「圓窓師匠の演出・芸風は私の好みに合うのかなあ」と手前勝手に思っ ているわけなんですが・・ 実は、萬窓師匠始め、窓門の噺家さんたちが好きなのも、勿論、夫々の噺家さん達 の個性や芸に因るところ大なのですが、その、基本的なスジがやはり圓窓一門だなあ と思わせる家風(というのでしょうか)を感じるからなのだと思うのです。 これは、窓門の師匠連と他派の噺家さん達との共演の番組を見るとよく分かります。 まず、声の通り、噺のメリハリ、言葉の正しさ(江戸言葉)、間合いなどの基本的 な能力が他と全然違う、と思うことがよくあるのです。 それこそ流派によっては、一緒にやるのが見ていて可愛そうなほど甲乙が付いてし まうという・・萬窓師匠や吉窓師匠と一緒では・・そんな番組も私はお目にかかって います。 芸の巧拙は誰の師匠か、どこの流派か、ましてや同期が何人真打になったかなんて ことは全く関係なくて(笑)、おそらくは、その人の修業、加えて才能が全てだと思 っていますが、やはり、師匠の薫陶というか影響は表に出てくるもなのですね。 そういう点で、私は窓門の皆さんを共通した思いで贔屓にしているのかもしれませ ん。 |
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2002・4・25 UP |