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 創作・ 講釈落語

徂 徠 豆 腐(そらいどうふ)


原作 講釈(一龍斎貞丈)
     [徂徠豆腐]より
脚色 六代目 三遊亭 圓窓
口演 六代目 三遊亭 圓窓

         登場人物
豆腐屋 七兵衛
  女房 うの
薪 屋 杢兵衛
長屋の先生(のちの荻生徂徠)
荻生徂徠
棟梁 政五郎
長屋の女 たけ
町の人
街の声・一
街の声・二
(三〇歳・四二歳)
(二五歳・三七歳)
(二五歳)
(二五歳)
(三七歳)
(四〇歳)
(三五歳)
(四〇歳)
(三五歳)
(三〇歳)


      平成十三年から十五年にかけて「忠臣蔵三百年」「赤穂義士三百年」が付
     いて回りました。
      まず、平成十三年が「元禄十四(一七〇一)年三月十四日、殿中の松の廊
     下にて浅野内匠頭が吉良上野介に向かって刃傷に及び、その内匠頭が即刻、
     切腹」という。あれから、三百年。
      平成十四年が「元禄十五(一七〇二)年十二月十四日、浅野家臣の赤穂浪
     士が吉良邸への討ち入り。吉良上野介の首級を挙げました」。あれから、三
     百年。

      次の平成十五年「元禄十六(一七〇三)年二月四日、本懐を遂げた四十七
      士が切腹をいたしました」。あれから、三百年。
      ですから、三年続けて三百年ということで、三三が九百年。
      そんな馬鹿な計算は成り立ちませんが。


      地元の赤穂では大変だったでしょうね。
      演劇、歌舞伎も企画やら公演やらで賑やかでしたよ。
      あたしも負けじと、平成十四年の十二月上席に国立演芸場で「寄席手本忠
     臣蔵」と題しまして十日間の特別企画を公演いたした。
      おいで下さった方々に厚くお礼を申し上げます。
      しかし、この期間中、思わぬところで「忠臣蔵」に触れて驚きましたよ。


      その一つですが。 
      あたしは二年ほど前から俳句を始めまして、句会へも顔を出しているんで
     す。師匠は角川春樹。
      プライベートの句会ですから、アルコールを飲みながら句を捻ったり選ん
     だりという人がほとんどです。ところが、あたしはアルコールは駄目なので、
     ジュースかなんか飲みながらやってます。世話人が気を利かして甘い物を添
     えてくれることがある。
      あるとき、ジュースの脇にセロファンに包まれたビー玉の親分みたいな茶
     色のお菓子が置いてある。セロファンですから透けて見えますよ。セロファ
     ンの字を読むと、「チョコラ饅頭」としてある。で、そのセロファンを取っ
     て口に入れると、なるほど、チョコレートの味のする饅頭ですよ。
      食べながら、セロファンの字を改めて読み直すと、お菓子を作った会社の
     名前が印刷されているんです。読んでみて驚いた。「由良之助製菓」ってん
     です。
      赤穂浪士の大石内蔵助は歌舞伎の忠臣蔵では大星由良之助と名が替わりま
     す。
     「忠臣蔵」と「チョコラ饅頭」。関連付けられますか? 無理ですよね。
     「饅頭」と「由良之助」……。由良之助が敵の高武蔵守師直(こうのむさし
     のかみもろのう・史実では吉良上野介)を饅頭で暗殺をしようとしたのか?
      そんな史実はないですよ。
     「チョコラ」と「由良之助」……。チョコレートが日本に入ってきたのは明治
     以降でしょう。もっとも、江戸時代、長崎には煙草とかコーヒーが入ってき
     ているようですが、赤穂浪士がチョコレートをかじって討ち入りをした、な
     んてことはないでしょう。
      この関連検索はあきらめて何日かたちました。
      平成十四年の十一月ですよ。ある日、国立劇場の忠臣蔵の通しを見て、び
     っくりしました。「チョコラ饅頭」と「由良之助」のつながりがわかったん
     です。
      七段目の一力の茶屋場。由良之助が放蕩している場面ですよ。
      由良之介が大勢の仲居に囲まれて出てきます。やがて庭で目隠しをされて
     鬼ごっこをします。仲居が揃って手を叩いて囃したてます。
     「由良さん、チョコラ。手の鳴るほうへ」
      謎が解けましたね。


      その二。
      西新井の「おおむら」という蕎麦屋さんから聞いたんです。「知り合いの
     蕎麦屋が赤穂義士に関係があるんです」って。
      といいますのは、両国の駅の近くに「玉屋」という蕎麦屋さんなんですが、
     赤穂浪士がその蕎麦屋に集まって支度をして、蕎麦を食べて吉良邸へ討ち入
     りに行ったんだそうです。
      これを知ったある外人がもっとよく調べて「これは単なる敵討ちではない。
     革命である。つまり、クーデターだ」という論文を出したんです。
      それを読んで驚きました。「蕎麦を食って出たんだから、食ー出ター」て
     んですがね。
      近頃は外人が駄洒落を研究してますからね、油断できませんよ。


      その三。
      ここで新たな謎が出てきたんです。蕎麦と敵討ちの因果関係ですよ。関係
     があるのか、ないのか。
      未だに誰も解明してないんですが、あたしが調べてわかりましたよ。歴史
     を遡りましょう。
      富士の裾野で、蕎麦(曽我)兄弟の敵討ちがありました。


      まぁ、駄洒落はさておき、敵討ちや忠臣蔵は日本人の風土にあったようで
     して。


      芝増上寺門前の貧乏長屋に転げ込むように住み込んだ二十五、六の若い学
     者。
      朝から晩まで書物を読んでいるか、筆をとってなにかしたためているかの
     毎日。
      蓄えも少しはあったんでしょうが、底をついてきたようで、三度の食事も
     二度になり、一度になり。ついに口にする物はなにもなくなった、大晦日。
      水ばかり飲んで、相変わらずの書見。除夜の鐘が、ゴーンと鳴り始めた。
      その間、間に腹の虫が、グーン、グーン。その度に水を飲んでは腹の虫を
     おとなしくさせてしのいだ。
      一陽あらたまの春。静かなおめでたい一日。
      もう腹の虫も鳴く元気を失ったか、あるいは飲み込まれた水に溺れたか、
     だいぶ静かになった。本人も立つのもやっとの思い。
      翌、二日。江戸の小商人は早々に商いにやってくる。


七兵衛「豆ぉ〜腐ぅ〜〜!」
先 生「{かぼそい声で}とうふやさん……、とうふやさん……」
七兵衛「へい、どちらさまで」
先 生「こちら。こちらです」
七兵衛「へい、どうも、おめでとう存じます」
先 生「豆腐はおいくらですかな」
七兵衛「四文でござんす」
先 生「では、これへ一つ。恐れ入ります」
七兵衛「へい。お待ちどうさま」
先 生「かたじけない。{箸を手にいきなりダブダブと食べ始める}」
七兵衛「いきなりやりますね」
先 生「面目ない」
七兵衛「客の中には箸を持つのも煩わしいてんで、いきなり口からお迎えってぇのは
   ありますが、箸手まといってぇ洒落だってんで」
先 生「そんな余裕はござらん。{ダブダブダブ}」
七兵衛「醤油でも垂らしたらどうです?」
先 生「なまじなものをかけると、せっかくの豆腐の味を殺すことになる{ダブダブ
   ダブ}」
七兵衛「ありがとう存じます。本当の豆腐好きですね」
先 生「さよう{ダブダブダブ}。まことに旨い豆腐じゃ。
    ところで、豆腐屋さん。{ダブダブダブ}お店はどちらで?」
七兵衛「門前の外れでござんす」
先 生「{ダブダブダブ}お店の名は?」
七兵衛「上総屋七兵衛っていいます。親父の代からやってる小さな店ですがね」
先 生「{ダブダブダブ}この豆腐はまことに旨い」
七兵衛「ありがとう存じます。食い物ってぇやつは好き嫌いがありますからね。豆腐
   もそうですよ。柔らけぇほうがいい、硬ぇほうがいいって、いろいろ言われま
   すがね。豆腐が旨ぇか不味いかは豆腐屋の腕でござんす」
先 生「そうでしょうな{ダブダブダブ}{グイグイと水まで飲む}この水は旨い。
   ところで、水屋さん」
七兵衛「豆腐屋ですよっ。売ったのは豆腐ですよ、水じゃぁありませんやな」
先 生「失礼いたした。あまりにも旨いので。おいくらでした?」
七兵衛「四文で」
先 生「……、{辺りを見回して}やぁ、生憎と細かいのを切らしておりました。明
   日の朝、まとめてお払いいたしますので」
七兵衛「へい、承知しました」


七兵衛「豆ぉ〜腐ぅ〜〜!!」
先 生「{昨日よりかぼそい声で}とう…ふやさん……、とう…ふやさん……」
七兵衛「へい」
先 生「一つ…、これへ」
七兵衛「へい」
先 生「おそれいります、水を多目に。ああ、{受け取りながら}かたじけない。{
   また、いきなりダブダブと食べ始める}まことに旨い。{ダブダブダブ}とこ
   ろで、豆腐屋さん。お店はどちら?」
七兵衛「門前の外れですッ」
先 生「そうでしたな…、{ダブダブダブ}お店の名は?」
七兵衛「上総屋七兵衛っていいますッ。親父の代からやってる小さな店ですよッ」
先 生「そうでした、そうでした。{ダブダブダブ}この豆腐はまことに旨い」
七兵衛「ありがとう存じます。食い物ってぇやつは好き嫌いがありますからね。豆腐
   もそうですよ。柔らけぇほうがいい、硬ぇほうがいいって、いろいろ言われま
   すがね。豆腐が旨ぇか不味いかは豆腐屋の腕でござんす」
先 生「そうでしょうな{ダブダブダブ}{グイグイと水まで飲む}この水は旨い。
   ところで、水…、豆腐屋さん」
七兵衛「一緒にしねぇでくださいよ。水豆腐ってぇのはありませんから。ちゃんと言
   ってくださいまし。豆腐屋です」
先 生「失礼いたした。あまりにも旨いので。おいくらになりますか?」
七兵衛「昨日今日で八文です」
先 生「……、{辺りを見回して}やぁ、また生憎と細かいのを切らしました。明日
   の朝、まとめてお払いいたしますので」
七兵衛「へい、わかりました」


七兵衛「豆ぉ〜腐ぅ〜〜!!!」
先 生「{ますますかぼそい声で}とう…ふや…さん……、とう…ふや…さん…」
七兵衛「声が出なくなったね。腰障子に掴まって、やっと立っているよ。へい、お待
   ちどうさま」
先 生「ひとつ…、これへ」
七兵衛「へい」
先 生「ああ、かたじけない{またもや、いきなりダブダブと食べ始める}まことに
   旨い。{ダブダブダブ}ところで、豆腐屋さん。お店はどちら?」
七兵衛「門前の外れッ。上総屋七兵衛って、親父の代からの小さな店ッ。豆腐が旨ぇ
   か不味いかは豆腐屋の腕でござんすッ。水屋じゃありません、豆腐屋でござん
   すッ」
先 生「まとめてくださって、{ダブダブダブ}恐れ入ります」
七兵衛「もう一丁やりますか?」
先 生「え? いや…、豆腐は一つに限ります」
七兵衛「そうかい、いいのかい?」
先 生「はい…。おいくらになりますかな?」
七兵衛「一昨日、昨日、今日で三丁ですから、三四の十二文になります」
先 生「……、{辺りを見回して}やぁ、またまた生憎と細かいのを切らして。明日
   の朝、まとめて……」
七兵衛「だろうと思って、釣銭をどっさり持ってきました。小判でも小粒でも出して
   くんねぇ」
先 生「面目ない…。細かいのを切らしているくらいだから、大きいのはとうに切ら
   しております」
七兵衛「やっぱり文なしかい?」
先 生「面目ない……。空腹に負けてしまい、つい……」
七兵衛「家業はなんなんだい?」
先 生「学問を少しばかり……」
七兵衛「学者か…、朝から晩まで、本を読んだりものを書いたりしてる、あれかい?
    銭になんのかい?」
先 生「今のところ、さっぱり…。しかし、なんとか世に出れば」
七兵衛「いつ、世に出るんだい?」
先 生「わかりません」
七兵衛「そうだろうな。わかっていりゃ、苦労も少ねぇやな。{家ん中を覗き込んで}
   家ん中、本が山んなってるね。あれを売ったらどうなんだ?」
先 生「命より大切な書物、手放すわけにはっ」
七兵衛「このままこんなことをしてると、死んじまうよ。なんのために学問なんてや
   ってんだい?」
先 生「……、考えるためです」
七兵衛「考える? この俺だってしてるよ、そんなこと。どうすりゃぁ旨ぇ豆腐がで
   きるだろうかって、考えてらぁ」
先 生「それです、それが学問です」
七兵衛「じゃぁ、一緒に豆腐作るかい? 銭にはなるぜ、このほうが」
先 生「私にすべきことはほかにありそうなんです」
七兵衛「どんなことだい?」
先 生「より多くの人がより良い世の中で暮らせるようになるには、どうすべきかを
   考えます」
七兵衛「考えるだけか」
先 生「それを取り上げてくださる人がいて、良い世の中を作るのです」
七兵衛「まどろっこしいね。わかった、こうしよう。お前さんと話をしているうちに、
   死んだ親父のことを思い出したよ。親父はよく言ってたよ。『これからは豆腐
   屋って学問の一つも身に付けてなくちゃぁいけねぇ。本をよく読め、読め』っ
   て。
    こっちはそんなことぁ嫌ぇだから、本なんざ読んだことねぇやな。未だに読
   み書きは寺子屋ぃ通っている餓鬼にも及ばねぇよ。
    まぁ、いいってことよ。十二文は出世払いってぇことにしよう。お前さんが
   世に出たら払っておくれ。その代わり、あっしの分まで学問して必ず世に出て
   くんな」
先 生「忝い……。必ず…、お払いいたします」
七兵衛「断わっておくがね、世に出るってことは、金が出来たとか、名前が売れたと
   か、出世したってことじゃねぇよ。いいかい。世間さまからお前さんが心底『
   おかげさまで』と言われるようになったときが、本当に世に出たってことなん
   だ。
    よく、役者とか噺家にいるんだよ。『名が売れて金が貯まったから、俺は世
   に出たんだ』ってそっくり返っている野郎がよ。そんなのは大嫌ぇだ。
    もし、お前さんが『金が入るようになったから』ってんで、そっくり返って
   十二文持ってきたって、俺は受け取らねぇよ」
先 生「はい……」
七兵衛「で、明日っから、どうするね」
先 生「なんとか」
七兵衛「なるわけねぇだろう。明日もくるよ。その代わり商ぇじゃねぇよ。商ぇの売
   れ残りがあるんだ。棄てるのはもってぇねぇから、かかあと無理に食ったり、
   近所の衆にあげたりしてんだ。そいつをこっちぃ持ってくるから、付き合って
   くんねぇ。どうだい?」
先 生「それではあまりにも甘えすぎで」
七兵衛「なにを言ってやんで。死んじまうよ、このままじゃぁ。今死んでどうするん
   だ。誰も誉めねぇぜ。今さら遠慮してどうなるんだよ、じれってぇなぁ」
先 生「はい…」
七兵衛「腹ぁ減らしてここで死んじゃぁならねぇ。どうせ死ぬのなら、世に出て見事
   に花を咲かせてから死にねぇな」
先 生「……、はい…」


七兵衛「というわけでよ、おっかあ。声も出なくなっちまった若ぇ学者に持ってって
   やろうじゃねぇか」
う の「そうだね。でも、売れ残りが必ずあるってぇわけでもなし……」
七兵衛「おからなら毎日、豆腐ぅこせぇてるから出るんだが……」
う の「おからは、あたしがちょいと味付けすると旨いもんだよ」
七兵衛「そんなことをすると、『おから本来の味を殺します』かなんか言うかもしれ
   ねぇな、あの学者は」
う の「おまんまもさ、こっちを少し削ればお結びくらいできるよ」
七兵衛「そうしてくんねぇ」
う の「毎日、売れ残りがどっさりあるといいね」
七兵衛「冗談言っちゃいけねぇ。そうなると、こっちの顎が干上がっちまうよ」
う の「そうならないうちに世に出てくれるといいねぇ」
七兵衛「世の中って面白ぇもんでさ。悪いやつが一人でも出ると大勢が迷惑をしちま
   う。けどな、一人でもいい人が出ると大勢が助かるもんさ。いい人と付き合い
   てぇな、おっかあ」
う の「まったくだよ」


      それから、七兵衛は毎朝せっせと学者の許へ通いました。
      そのメニューは味付きのおからがメーンで、あとは日替わりの売れ残り。
     三日に一度はお握り。女房うのの心尽くしのおつけ。
      若い学者は涙を拭きながら食べました。
      この長屋では「おからの先生」って言われるようになった。
      二十日ほど経って、七兵衛さん風邪を背負い込んで、そいつをこじらし
     て寝込んで商いに出られなくなっちまった。
      仲のいいおかみさんもそいつを貰って、枕を並べて寝込んだ。
      やっと床上げしたのが、四日たってから。
      なんとか、商いに出た。


七兵衛「豆ぉ〜腐ぅ〜〜! おからの先生! いねぇのかな。{戸をあける}本もね
   ぇ、空っぽだよ。どうしたのかな。
   {脇を見て}あっ、おかみさん。おからの先生はどうしたい?」
た け「あっ、豆腐屋さん……、おからの先生…、空っぽ」
七兵衛「洒落かい?」
た け「洒落になっちまったね。いやね、昨日だったね。何人か来てさ。あっという
   間に越しちまったよ。見事だったね」
七兵衛「どこへ行ったんでしょう?」
た け「わからないね、そこまで言わなかったよ」
七兵衛「なんかあったんですかい?」
た け「さぁ」
七兵衛「いいことならいいんだが」
た け「なにしろ、逃げるようだったからね」
七兵衛「いいこっちゃなさそうだな、そりゃ。でも、一言ぐれぇなんか言ってくれり
   ゃいいのに。残り物なんぞを厚かましく持ってきてたから、嫌われたのかな」
た け「豆腐屋さん。そんなことないよ。普段はあんまり話はしなかったんだけど、
   はばかりぃ行くとき会うことがあるだろう。こっちが豆腐屋さんの話をすると、
   必ず涙ぐんで『豆腐屋さんは命の恩人です』って。何度も聞かされたよ。おか
   らの先生は悪い人じゃないからね、怒りなさんな」
七兵衛「そいつはわかってるよ。なら、一言ぐれぇあってもいいじゃねぇか。こっち
   も患ってて顔を出してなかったからな。そうそう、あの学者、名前はなんてん
   です?」
た け「う〜ん、なんとか言ったね。お灸がつらい、とかなんとか」
七兵衛「お灸がつらい……? ま、確かに、お灸は熱いからつれぇだろうがね。それ
   でいて、寒くってガタガタ震えていたようだったが。じゃ、また、寄るから」


      それから、二日に一遍、三日に一遍、五日に一遍と顔を出しましたが、
     戻った様子もない。
     「まぁ、どっかで元気でいてくれればいいが」と夫婦で気にしておりまし
     たが、去る者日々に疎しで、もうかれこれ十年。
      夫婦の頭の中から、学者のことは消えておりました。


      元禄十四年三月十四日。
      殿中の松の廊下にて刃傷。切り付けた浅野内匠頭は即刻、切腹。切られ
     た吉良上野介にはお咎めなし。
      江戸中が沸いた。「そんな馬鹿なことがあるか!」「喧嘩両成敗じゃね
     ぇか!」


      元禄十五年十二月十四日。
      赤穂浪士の吉良邸への討ち入り。吉良上野介の首級を挙げました。
      今度は日本中が沸いた。「やったね!」「本懐遂げたね!」


      翌十五日の夜中。
      豆腐屋の隣りから火が出まして、あっという間に辺り一面が全焼しまし
     た。


      翌十六日の朝。
      まだ焦げ臭いものが立ち込めた無残な増上寺門前。


政五郎「ちょっくら伺いますが」
町の人「はい」
政五郎「あなたさまも焼け出されたお方で?」
町の人「火は回ってきませんでしたが、家は壊されました」
政五郎「そうですか。お見舞い申し上げます」
町の人「ありがとう存じます」
政五郎「ところで、この辺りと聞いてきたんですが、豆腐屋の上総屋七兵衛さんはど
   うなりましたでしょうか」
町の人「豆腐屋さんは火元の隣りですから、可哀想に火をもろにあびましてね」
政五郎「どうしました?」
町の人「みんな焼き豆腐になりましたよ」
政五郎「小咄を聞いているようだね、まるで。夫婦は亡くなったのかい?」
町の人「なんとか逃げ出しましたよ」
政五郎「命には別状はねぇんだね」
町の人「二人共、持ち出した物はなにもなし。着のみ着のまま。それに七兵衛さんは
   逃げるときに腰を打ちましてね。動きがとれませんで。道端でおかみさんが七
   兵衛さんを抱え込むようにして、焼け落ちる自分の店を見ておりましたよ」
政五郎「そうですか。で、お二人は今どちらに?」
町の人「火事見舞いに素っ飛んできました、知る辺のところへ行っているようですよ」
政五郎「どちらでしょうか?」
町の人「魚濫坂下の薪屋さんだそうです。行けばわかるでしょう。あの辺に薪屋は一
   軒しかありませんから」
政五郎「ありがとう存じます」


政五郎「ごめんくださいまし」
杢兵衛「はい、いらっしゃい」
政五郎「こちらにお豆腐屋さんがおいでになるということで」
杢兵衛「はい、はい。
   {奥へ}七兵衛さん、お客さまだよ」
七兵衛「はい、七兵衛ですが……」
政五郎「お初にお目にかかります。あっしは政五郎と申します。大工の端くれでござ
   んす。この度はさぞやご難儀なことと、お見舞い申します」
七兵衛「はぁ、ありがとう存じます」
政五郎「こちらへお届けをするようにと、さるお方からお預かりましたので。十両ご
   ざいます。お調べのほどを」
七兵衛「十両……? なんです?」
政五郎「なにやかやお困りのことでしょうから、どうぞお使いくださいますように、
   と」
七兵衛「どなたさまでございます?」
政五郎「まぁ、いずれわかると思いますが、とりあえず、お使いくださいまし。ごめ
   んなすって」
七兵衛「もしッ! ちょいと、あなたッ!{見送って}行っちまったよ。
   {脇のうのへ}どうする、おっかあ」
う の「まるで、夢を見ているようだね、十両だなんて……」
七兵衛「そうだね、夢だよ、まったく」
う の「助かるね」
七兵衛「なんだかわからねぇ金には手ぇ付けられねぇぞ」
う の「夢ん中で使えばいいじゃないか」
七兵衛「そんな器用な使い方ぁできるかよ。こうしよう、ここの薪屋さんに回そうじ
   ぇねぇか」
う の「そうだね、それが一番だね。すっかりお世話になってんだから」
七兵衛「{薪屋へ}杢兵衛さん。そういうわけだ、使っておくんなさい」
杢兵衛「冗談言っちゃいけねぇ。あたしが受け取るわけにはいきませんよ。
    だいいち、あたしはあなたのお父っつぁんには一方ならないお世話になった
   男だ。お父っつぁんがいなかったら、あの頃、あたしは野垂れ死にするところ
   だったんだ。
    その恩返しをと思っていたら、お父っつぁんはあんな亡くなりようをしてし
   まいまして」
七兵衛「そうなんだよ。親父は口じゃ偉そうなことを言ってても、そそっかしくてね。
   商いに出て、足を滑らして石に頭をぶつけて死んじまいやがってさ。どうせぶ
   つけるんなら、商売用の豆腐の角にすればいいのに」
杢兵衛「そのご恩返しの万分の一と思っているのですから、いただくわけにはいきま
   せんよ」
七兵衛「じゃ、こうしましょう、杢兵衛さん。この神棚に上げておきましょう。よほ
   ど困ったときに、神様に断わって使わしてもらおうじゃねぇか」
う の「そうだね、それがいいね」
杢兵衛「わかりました。とりあえず、神棚にでも」
七兵衛「そうよ、困ったときの神頼みさ」


      元禄十六年二月四日 四十七士の切腹。


      街の声・一「なんてぇこった。あんな立派な義士たちをさッ」
      街の声・二「まったくだ。誰なんだい、そんなこと決めやがったのはッ」


      その月の十四日。


政五郎「ごめんなすって」
七兵衛「あッ、お前さんだ。十両をいきなり置いてったのは。でも、返すったって、
   ちょいと使っちまったよ」
政五郎「どうぞ、遠慮なさらず使っておくんなさい。今日、来たってぇのは、お二人
   にお出かけをいただきたいので」
七兵衛「出かける? どこぃ?」
政五郎「おいで下さればわかりますので」
七兵衛「でも、あっしは焼け出されたとき、腰を痛めちまって、商ぇもできねぇ始末
   で」
政五郎「そう思いまして、大八車を回してありますので、お二人で抱き合って乗って
   おくんなさい。あとは若い者に任せておくんなさい。
   {外へ}おーい、頼んだぜ」
若い衆「へーーい!!」
若い衆「あらよ!!」


      若い者が五、六人。前に引く者、後ろに押す者。魚濫坂をガラガラガラ
     ガラッと一気に駆け上がって、芝増上寺門前の焼け跡へ。


七兵衛「おい、おっかあ、なんだい、これは……。焼けたはずの店が建ってるよ……」
う の「ほんとだね。それも前よりきれいに……。夢の中で夢ぇ見ているようだね、
   まったく」
七兵衛「棟梁。これはどういうことなんです?」
政五郎「七兵衛さんのお店で」
七兵衛「だって、焼けたんだぜ」
政五郎「新たに建てました」
七兵衛「誰が?」
政五郎「頼まれまして、あっしが」
七兵衛「頼んだのは、どこのどなたなんですッ?」
政五郎「いずれ、わかります」
七兵衛「いずれ、いずれってぇますがね。そんなに焦らさないで」
政五郎「とりあえず、お入りください」
七兵衛「{入りながら}気味が悪いな」
う の「ほんとだね、お前さん」
政五郎「どうぞ、どうぞお上がりください。遠慮なさらず、あなたさまの店ですから」
七兵衛「そうは言いますがね……」
政五郎「おかみさんも、どうぞ」
う の「上がった途端に、誰かが出てきて、『なにしに来たッ』ってぇのはいやです
   よ……」
政五郎「誰もおりませんで、ご安心を。
   {七兵衛に}どうぞ、上座へ。あなたさまはここの主なんですから」
七兵衛「狐につままれたようだな。
   {脇に}おっかあ。心細いからそばにいておくれよ」
う の「豆腐屋には油揚げがあるから、狐が来るのかね」
七兵衛「それとも、棟梁が狸穴の狸…?{と、棟梁の顔を窺う}」
政五郎「いいえ、あっしは本物の人間で」
七兵衛「棟梁。いつまでも焦らしてねぇで、誰なんです、指し金してんのは? 早く教
   えておくんねぇ」
政五郎「{店先のほうへ}先生。ここいらでお顔を出しておくんなせぇ」
先 生「{威儀を正して}永らくご無沙汰をいたしました」
七兵衛「なんだい、いやに立派ななりの人が出てきたね。
   {脇へ}おっかあ。お前の親類にいるかい? 羽二重の紋付に仙台平の袴をも
   っているような人が」
う の「いるわけないよ、そんな人は。うちのはみんな木綿物だよ」
七兵衛「俺の親類もそうだよ。となると、誰なんだい、この人は……。
   {出てきた人に向かって}お見逸れいたしやした。そんな立派ななりの方とは
   付き合いがねぇもんで。どちらさまでござんしょう」
先 生「お忘れですか……、『とうふやさん…、とうふやさん……』」
七兵衛「あッ、おからの先生ッ」
先 生「はい」
七兵衛「十二文のッ」
先 生「はい。お懐かしゅうござります」
七兵衛「おっかあ、この人だよ、俺が通った」
う の「{先生に}そうですか。あなたさまですか、文なしは」
七兵衛「文なしって言うやつがあるかよ」
う の「じゃぁ、お文なし」
七兵衛「同じだよ」
う の「お初にお目にかかります。七兵衛から話はよく聞かされました」
先 生「おかみさんですね。あの折、おからに美味しく味付けをしてくださいました
   方は」
う の「あら、いやですよ、そんな。残さず食べてくだすったそうで、嬉しくて、嬉
   しくて」
七兵衛「おからの先生。とうとう、世に出たねッ」
先 生「はぁ……」
七兵衛「心底『おかげさまで』と言われたねッ」
先 生「はっ……」
七兵衛「あっしの分まで学問したねッ」
先 生「はい。あれから増上寺の了也僧正にもお世話に相成り、五年後、僧正のお口
   利きでご大老の柳沢美濃守さまのお引き立てをいただきまして、仕官が叶いま
   した」
七兵衛「そうかい、そいつはよかった。こっちは親父の気分になってきちまったぜ」
先 生「あの折、なんらご挨拶もせず長屋を出ましたこと、お詫びを申し上げます。
    訪ねてきた友人たちに『このままでは体がもたない』と連れ出されたも同然
   で。一言、ご挨拶をと思いましたが、出世払いのこともあり、お顔出しもしに
   くく……」
七兵衛「いいってことよ。実はあんとき、あっしも風邪ぇこじらして、かかあと二人
   で寝込んじまってさ。先生も腹を減らして待ってやしねぇかと気にしてたんだ
   が、しつっこい風邪で食いついて離れねぇんだよ。
    やっと治って商ぇに出られるようになって、先生の長屋に回ったんだが、い
   ねぇんだ。随分と心配したんだぜ……」
先 生「お店の前は何度も通りました。自分から、世に出ましたとも言いにくく、つ
   い素通りをしておりました。
    去年、十二月十五日の夜、火事にあって焼け出されたことを知り、すぐにお
   見舞いをと思いましたが、ご存知の赤穂の討ち入りがありました。以来、それ
   に掛かり切りになりまして、お顔出しのいとまもありませんでした。
    この二月四日、赤穂の面々が腹を召し、ようよう動けるようになりまして、
   遅くなりましたが、今日、やっと、お詫び方々お目にかかることができまして、
   こんな嬉しいことはございません」
七兵衛「そうかい、そういうこともあったのかい。じゃ、あの十両ってぇのは、先生
   から?」
先 生「出世払いがやっと出来ました」
七兵衛「ちょいと待っておくんねぇ。出世払いにしたのは十二文だぁな。十両ってぇ
   のは多すぎるじゃねぇか」
先 生「ほんの利息でございます」
七兵衛「世の中にそんな高い利息はねぇよ。今、どこへいったって利息は、なしのな
   しなしなんだから。で、この店は?」
先 生「お礼の品でございます」
七兵衛「品が大きすぎるよ。
   {うのに}おっかあ、どうする? 豆腐三丁でこの店をもらっちまったよ」
う の「あんとき、ガンモドキをつけていれば、今頃、大きなお屋敷でも」
七兵衛「欲張るなよ。
   {先生へ}柳沢さまとおっしゃいましたかね、先生……。ご大老のですかい?」
先 生「はい」
七兵衛「てぇしたもんだね、先生は。……? お城の中にも乗り込むんですかい?」
先 生「参上することもございます」
七兵衛「お城の中には金なんぞ、うんうん唸ってんだろうな。千両箱がごろごろ転が
   っていてさ。そういうのを懐に入れたり、あるいは、袖の下で、いやに片っぽ
   が重くなってきたりするんだ。
    まさか、そういう金でこの店を建てたんじゃねぇだろうね」
先 生「私は不器用者でそういうことはできませんで。いただいたお給金から建てさ
   せていただきましたから、その点はご心配なく」
七兵衛「へ、承知いたしやした。それからね、おからの先生ッ」
う の「お前さん、もう『おからの先生』はおよしよ」
七兵衛「それもそうだな。
   {先生へ}じゃぁ、卯の花の先生」
う の「おんなじだよ」。
先 生「いや、どちらでもかまいません。ありがたいですな」
七兵衛「そういえば、先生の本当の名前を知らなかったな」
先 生「私もあのときは面目なくて名乗りもいたしませんでした」
七兵衛「そうそう、思い出した。長屋のかみさんが、『お灸がつらい』って言ってた
   かな」
先 生「は?」
七兵衛「お灸がつらいてんじゃねぇんですかい?」
先 生「いえ、荻生徂徠と申します」
七兵衛「ほぅら、お灸がつらい」
先 生「荻生徂徠でございます」
七兵衛「……、もう一度聞かしておくんねぇ」
先 生「荻生徂徠」
七兵衛「おぎゅう…? そらい…? おぎゅうそらい…、おぎゅうそらい……。思い
   出したッ。おぎゅうそらいだッ。岩田の隠居が言ってた。『赤穂の義士に切腹
   をって、言い出した学者がおぎゅうそらいだ』って。その学者って、お前さん
   かいッ?」
徂 徠「いかにも」
七兵衛「いかにもだぁ? 冗談言っちゃいけねぇやなッ。十両はお返し申しましょう
   ッ。と言っても、ちょいとばかり使っちまったから、そいつは出世払いにして
   くんねぇ。この店はいりません。誰かにやってくんねぇッ」
徂 徠「ご立腹のご様子で……」
七兵衛「当たり前ッ。誰だって怒らぁね。四十七士は誉めたって誉め尽くせねぇぐれ
   ぇ立派な人たちだぁな。それを腹ぁ切れってぇのはどういうわけなんでぇッ」
徂 徠「七兵衛さん。私の申しますこと、一通り聞いていただけますかな」
七兵衛「言い訳かい? 学者の言い訳なんぞ聞きたくねぇが、ここまで来たからには
   仕方がねぇ、聞こうじゃねぇか。その代わり、一遍きりだよ」
徂 徠「一昨年、浅野内匠頭殿、殿中において、刀を抜き、刃傷をおこしました。こ
   れはご法度でございます。浅野殿、即刻、お腹を召されました」
七兵衛「言われなくても知ってるよ。そもそもそれが可変しいじゃねぇか。吉良はお
   咎めなしでさ。そんなチョボイチあるかよ」
徂 徠「喧嘩両成敗であるべき、との考えもありましょう。が、吉良殿も刀を抜いた
   ならば、あるいは立ち向かったならば、喧嘩両成敗にもなりましょう。しかし、
   刀は抜いておりません。立ち向かってもおりませぬ。切られてその場から去っ
   たのです。吉良殿に咎はございませぬ」
七兵衛「……、恨みがあったから、斬りつけたんだろうが」
徂 徠「なんの恨みでしょうか。仮にあったとしても、その恨みをなぜ勅使を迎えた
   その日に、しかも殿中で晴らさなければならなかったのでしょうか」
七兵衛「そんなことは知らねぇやな、こっちは」
徂 徠「私にもわかりません。どなたにもわかりますまい。誰もがわかっていること
   は殿中にて抜刀し、刃傷に及び、法を犯したこということだけなのです」
七兵衛「そりゃそうだろうが……」
徂 徠「ご主君を失った家臣一同、敵を討ちたしの一心は当然のことでありましょう。
   まさに義の一字でしょう。しかし、仇討ちはご法度、徒党を組むことも禁じら
   れております。法を犯しております」
七兵衛「だから、学者はいやなんだよ。そんな細けぇことはなしにしようじゃねぇか、
   この際。仇討ちをしたんだから、立派じゃねぇか。誰だってあんなに褒めてる
   じゃねぇか。それをなんだって、腹を切れなんてぇことを言い出すんだい」
徂 徠「天下の大法でございます。法を曲げるわけには参りません」
七兵衛「いいじぇねぇか、少しぐらい曲げたって」
徂 徠「私は法を曲げずに、法に情けを注いだのです」
七兵衛「なんだい、それは」
徂 徠「ご主君を失い、弟君の大学様をお立てになり、御家再興を願い出でましたが、
   それは叶いませんでした。ついに『討ち入る以外に道はなし』と、法を犯すこ
   とを承知でことに及んだのでしょう。
    多くの人々がそれを快挙とし、誉め称えました。四十七士の『ご主君のそば
   へ馳せ参じたし』の心根を察しますと、複雑な思いでいっぱいです。
    しかし、いくら快挙とは言え、法を曲げるわけには参りません。さりとて、
   四十七士を罰するにはあまりにも心が痛みまする。
    そこで、法を曲げずに情けを注いだのです」
七兵衛「なにをしたんでぇ」
徂 徠「仇を討ち、本望を遂げたのでしょうが、方々にはもう一つ思いがあったはず
   です。それも本望と言ってもよいでしょう。ご主君のおそばへ馳せ参じること
   です。それゆえ、わたくしは『赤穂の浪士に追い腹を』と言上したのでござい
   ます」
七兵衛「やっぱり『早く死ね』ってぇことじゃねぇか」
徂 徠「違います。もう一つの本望を遂げさせるための切腹です」
七兵衛「死ねと言っといて、今さら、なにが本望だよ」
徂 徠「仮に、四十七士が助命され、この先、生き永らえたといたしましょう。四十
   七士が一人一人、各地で誉め称えられた中で生活を始めることでしょう。
    しかし、四十七士すべてが清く正しく生き永らえると、誰が言えましょう。
   その中でたった一人が、出来心、あるいは魔が差して、不覚にも法を犯したと
   いたしましょう。
    世間はなんと申しましょう。『あの四十七士の誰それが』と必ず四十七士が
   持ち出されます。汚名はその者一人にはとどまらず、常に四十七士すべてに振り
   被ってくるのです。成し遂げた本望に大きな傷となって付いてまわります。
    せっかく見事に咲かせた花を、無駄花にしてはならないのです。枯らしては
   ならないのです。
    そのためにはここで見事にもう一つの本望を遂げるべきなのです。子々孫々
   まで見事に生きんがために、ここで見事に死ぬのです。死することによって、
   生き続けるのです。
    誰が言いましたか、花は桜木、人は武士。誠のもののふの本懐だと思います
   が、いかがで」
七兵衛「そんなのは……、学者の理屈だよ……」
徂 徠「いえ、これは武士の本分に通じることなのです。
    七兵衛さん。武士の差しまする大小二本の刀はなんのためでしょうか」
七兵衛「人を斬るためだろうが」
徂 徠「まさに大のほうは人を斬るためでしょう。討ち入りで存分に使われました。
    では、小の脇差はなんのためでしょう」
七兵衛「……?」
徂 徠「己で己を斬るためです。武士の本分、魂は小の脇差にあると、私は思ってお
   ります。常日頃から己で己を切る覚悟のない武士はまことの武士ではございま
   せん。武士というものは、己で己の始末をすることを誇りとしています。切腹
   は武士の誇り、誉れなのです。打ち首や獄門などとは比べようのないものなの
   です。
    また、散り際をいかにいさぎよくするか、武士というものはそこに生涯のす
   べてを懸けていると言っても過言ではないのです」
七兵衛「………」
徂 徠「切腹については浪士の方々から異議を申し立てる声は一つもございませんで
   した。二月四日、切腹の様子を検死役の方々が異口同音に申しておりました。
   『赤穂の方々、皆一様に清々しいお顔で、ご主君のそばに馳せ参じる喜びを現
   わしておられた』と。
    本望の叶ったことは間違いないと、私は思っております。
    法を曲げずに、情けを注ぎました」
七兵衛「その、法を曲げずに情けを注いだってぇのが、よくわからねぇんだが」
徂 徠「いえ、七兵衛さん。あなたもなさっています」
七兵衛「あっしが? なにを? あっしにはそんな学はねぇよ」
徂 徠「十年前、私は銭を払うような素振りで、都合、三丁の豆腐を食しました。無
   銭飲食です。法に触れた行いです。
    しかし、あなたはそのことには頓着せず、『出世払いでいい』と情けをくだ
   さったではありませんか。
    あなたは天下の法に許す限りの情けを注いでくださったのです」
七兵衛「そんなつもりじゃねぇんだよ、あっしは」
徂 徠「そのおかげで、私はなんとか世に出ることができました。
    私も、赤穂の浪士に法を曲げずに情けを注いだつもりです。
    十年前、長屋で七兵衛さんに言われました。『腹を減らしてここで死んでは
   ならぬ。どうせ死ぬのなら、世に出て見事に花を咲かせてから死ね』と。
    十年たった今、私、その言葉を赤穂の面々に言っているような気がしてなら
   ないのです。『見事に花を咲かせたのであるから、見事に…、見事に散れ…』
   と……」
七兵衛「へぇ……、{涙を拭きながら}おっかあ、どうしよう。焼け出されたときは
   焼き豆腐になっちまったが、今、先生の話を聞いているうちに、泣き豆腐にな
   っちまったぜ」
う の「あたしもなぜか涙がとまらないよ。先生のおっしゃることもわかるように気
   がする」
七兵衛「先生。生意気なことを言いましてあいすいません。先生のおっしゃること、
   なんとなくわかってきました。四十七士もそのつもりで討ち入りに及んだんで
   しょうね、きっと。命を惜しんでるわけねぇんだ。
    武士に意地があるんなら、情けもあるはずだ。ご主君のそばへ送ってやるの
   も情ですね、先生」
徂 徠「わかっていただけて、私も嬉しいです。ですから、十両もこのお店もお受け
   取りくださいませ」
七兵衛「じゃ、なにもかも遠慮なくいただきますよ、先生。ありがとう存じます。
   {うのに}おっかあも礼を言いねぇな」
う の「ありがとうございます。貰ったり返したりいたしまして。お豆腐だったら、
   とうに崩れてしまってます」
徂 徠「面白いことをおっしゃいますな。そうそう、忘れておりました。増上寺の了
   也僧正に七兵衛さんの話をいたしました。すると『寺でもその豆腐にあやかり
   たいものじゃ』とおっしゃいました。いかがですかな、増上寺へのお出入りは?
   」
七兵衛「えっ、増上寺さまへ? お出入り!
   {うのへ}また夢だよ、おっかあ」
う の「夢の奥へ奥へと入っていくようだよ、お前さん」
七兵衛「商ぇが出来るようになりましたら、早速、やらしていただきます。ついちゃ
   ぁ、豆腐の名前を先生にあやかって『徂徠豆腐』と付けてようがすかね」
徂 徠「私の名を? やぁー、私の名が残りますな」
七兵衛「そうなると、売り声を変えますよ。『とうふ〜、徂徠豆腐はいかがさま』」
徂 徠「嬉しいですな。昔を思い出しますな」
七兵衛「毎日、先生のところへ伺いますよ。『とうふ〜、徂徠豆腐はいかがさま』」
徂 徠「私もまた、声をかけますよ。{昔のように}とう…ふやさん……、とう…ふ
   やさん……」
七兵衛「もうその声はよしましょうよ。遠慮なく大きな声を出しておくんなさいな」
徂 徠「一つ、おいくらで?」
七兵衛「四文でござんす」
徂 徠「四文……、懐かしいですなぁ。では、一つ」
七兵衛「へい。あるつもりですよ、先生。{渡す仕種}お待ちどうさま」
徂 徠「かたじけない。{食べる仕種をする}
   {その手をとめて}七兵衛さん。私が今日あるのは、あなたのおかげと、心
   底、思っております」
七兵衛「あっしも、先生のおかげでと、心底、思っておりやす」
   {うのへ}なぁ、おっかあ」
う の「そうだとも。その上、あたしゃ、心底、お前さんのおかげだよ」
七兵衛「よしゃがれ、この最中に惚気んのは。
   {徂徠へ}そうだ、先生。徂徠豆腐を泉岳寺へ持ってって四十七士にもお供え
   してもようがすかね」
徂 徠「よいところにお気が付かれましたな。あの世で四十七士も喜ぶことでしょう」
七兵衛「四十七士に喜んでもらえて、こっちの自慢になりますよ。
   それにしても切腹した赤穂浪士も立派だが、先生もてぇしたもんですね」
徂 徠「いや、私は豆腐好きのただの学者ですよ」
七兵衛「いや、そんなことはねぇ。この店を見りゃぁわかります。先生はあっしのた
   めに自腹を切ってくださった」

2003・5・1 UP