古典噺  トップページ

創作落語 

創作・演劇落語 創作・狂言落語 創作・舞踊落語 創作・仏笑落語 創作・民話落語
創作・架空落語 創作・文学落語 創作・講釈落語

創作・ 仏笑落語 1           「明日ありと」 / 写経猿

明 日 あ り と」
原作
口演

場所
六代 三遊亭 圓窓
六代 三遊亭 圓窓
江戸幕末
江戸下町
登場人物
隠居 
大工
女房
子供
籐兵衛
熊五郎
お勝
金太
六五歳
三五歳
三〇歳
九歳
  落語の源泉は、どこにあるか。
  多くの人が調べてますから、いろんな説がありますが、中で、「仏教の流れを汲んで
 いるんじゃないか」という説が有力ですね。
  その証拠は、現にみなさんの目の前にもあるんです。
  あたしが座っている所、舞台ではありません。舞台というのは、〔舞う台〕と書きま
 すから、歌舞伎の役者とか、舞踊家の立つ所。
  ステージでもありません。あれは海の向こうから来たもんですから、字で書きまして
 も、横文字です。S、T、…、ま、いずれ発表しますがね。
  あたしの座っている所は、高座といいます。字で書きますと、高い所に座る。
  これは、我々の業界が考案したものではなく、なんと、お寺さんからきているんです。
  今でも、真宗の古いお寺にいきますと、保存されているところがあります。
  あたしも、一度、座らせてもらって、一席、噺を演ったことがあります。岐阜のほう
 の真宗のお寺さんでした。
  ちょうど、お湯屋の番台みたいなもんで。そこに、ありがたい坊さんが座りまして、
 信者を前にして説教節談をやったんだそうで。一段、高い所に座りますので、そこを高
 座といったんで。
  それが寄席のほうにも流れてきて、高座。
  それに、ありがたい坊さんが一席する前に、まだ、修業中の若い坊さんが出てきて、
 一席やったそうで。前に出てきて座ったので、それを前座といいました。
  本来、前座とは、説教をする修業中の若い坊さんのことをいったんだそうで。
  その言葉は、歌の世界に入って、前座歌手。スポーツの世界では前座試合。
  我々のほうでも、入門しますと、三年から、四年は前座といいまして、まず、雑用を
 こなすことから始まります。
  ご覧になって、わかるでしょう。演芸が変わるたびに、前座が出てきて、座布団をひ
 っくり替えしてます。これを高座替えし。ついでに、傍らのメクリを替えます。これを
 「戒名を取り替える」なんて言います。
  それだけではありません。
  あたしが着ている物に、羽織があります。これを楽屋の符丁で、達磨といいます。達
 磨大師の絵を思い浮かべてください。フワフワッとしたものをはおってますね。で、我々
 は、羽織を達磨といってます。
  まだ、あります。
  落語という話芸は、扇子と手拭いを使うことが許されてます。
  この扇子。我々は扇とはいいません。扇子といってます。
 「扇の子供と書いて扇子。ですから、扇のより小さく出来てます」と、今まで言ってた
 んですが、どうも、そうじゃなさそうで。
  三省堂の新国語中辞典によると、子は接尾語で、唐音で子と書いて、す、と読む。漢
 語に添えて語調を整える。〔金子、扇子〕と例が載ってます。
  ということは、大きい小さいは関係ないんですね。語調を整える接尾語。金子、扇子、
 椅子、茄子、餃子と、他にもいろいろあるようで。
  この扇子は、符丁で風といいます。これは、こうして開いて扇ぐと、風が起こるから、
 というんでしょうが。この符丁はお寺さんでも使っておりました。
  それから、この手拭いです。符丁で曼陀羅といってます。
  まさに、お寺さんですね。密教の真言宗では、たいそう重要に扱ってます。一枚の布、
 あるいは壁に書いたり、砂に書いたりすることがあるそうですが。
  多くは布です。一枚の布にお釈迦様の教えから端を発した宇宙のすべてが描かれてい
 るのが、曼陀羅。
  我々も一本の手拭い、つまり、一枚の布でいろんな物を表現します。
 「いくら? そうかい。あるかな。あゝ、あった、あった。釣りはいらねぇよ」
  あたしは、「財布」とは一言もいいませんでしたが、これが財布に見えたでしょう?
  見えないとなると、あたしの演技力が劣っていたことになります。あるいは、お客さ
 んの想像力が相当、欠乏していたか、どっちかです。どっちでしょう?
  今日は結論を出さないことにしましょう。
 「じゃ、読んで聞かせるから、黙って、聞いてろよ、いいな」
  てんで、本になりますね。
  ですから、一枚の布がいろんな物を表現するということは、噺家の手拭いも、お寺さ
 んの曼陀羅も同じだということで、曼陀羅という言葉も我々のほうに流れてきたんです
 ね。
  どうです。これだけ物的証拠が揃ってんですから、裁判に持ち込んでも我々は負けま
 せん。判決の日には、「勝訴」と書いた紙を持って、駆けずり回りますよ、こっちは。
  ですから、今日、こうして、あたしがみなさんの前で一席できるのは、ただ単に、み
 なさんがこの寄席にいらっしゃったからという、そんな単純なものではありません。
  必ずや、お釈迦様のお導きがあったからこそでしょうね。こう考えてみると、落語は
 たいしたもんですよ。
  ですから、みなさん。落語を聞いたとき、ただ、笑ってすませるというのはいけませ
 ん。笑うのは結構です。大いに笑ってください。今までの二倍も三倍も笑ってください。
  笑った後です、大事なのは。
  必ず、両手を合わせて噺家を拝んでください。ついでに、お布施として全財産をいた
 だければ、もう言うことはないですね。
  そういうことで、落語の中には仏教を扱った噺が多くありまして。

隠居「やァ…、大工さん。ご精が出ますな」
大工「あゝ、ご隠居。褒められると、面目ねぇ。こいつは仕事ですから」
隠「今日はその辺にして、もう、お上がりんなったら、どうですな…?」
大「いえ、まだ、片付けが、残ってますんで…」
隠「もう、暗くなりましたから、それは明日になすったら、どうですな…?」
大「こういうのが転がってますと、お家の方が足を引っかけて、怪我ァしねぇとも限りま
 せんで」
隠「夜分になりますと、うちの者もこの庭へは誰も下りませんから」
大「さいでござんすか…。でも…、後片付けも仕事の内でして…。『あいつは腕はいいが、
 やたらと、散らかしていけねぇ』なんてぇ小言がありましてね。片付けまでやらねぇと、
 仕事をやった内になりませんで。それに、今日のことは今日の内にやっといたほうが、
 あとが楽ですんで」
隠「なかなか厳しいもんですな」
大「大工をしてますと、これで、いろいろと、教わることもありまして。山で木が切られ
 て、倒されて、これが材木になります。こいつが、仕事場でまた切られたり、削られた
 りします。
  で、出来上がったものは、いろんな人に『いいね』とか、『大したもんだ』とか、褒
 められもしましょうが…、鉋っ屑や切れっ端は、『もう、いらねぇ』とか『邪魔だ』っ
 てんで、誰も見向きもしませんで。下の者に捨てさしたり、片付けさしたりするのが、
 関の山で。
  あっしゃ、これが可哀そうでならねぇで。同じ木だったんですよ。ですから、仕事を
 したときは、鉋っ屑や切れっ端にも、『ご苦労さん』と礼を言って、往生させてやりて
 ぇ、と思ってます。
  大勢の仕事場でも、あっしゃ、上がるときゃァ、後片付けがちゃんと出来ているか、
 どうか、見回ってから、上がることにしてますんで。
  そんなことから、今日のことは今日の内にやるようになりましたんで、ヘェ」
隠「そうですか…。では、その片付けが終わったら、声をかけてくださいな。お茶をいれ
 ますから」
大「恐れいります」

大「旦那ッ…。どうも、今日はこれで上がらせてもらいますッ。また、明日、伺いますん
 でッ」
隠「ご苦労さまでしたな。お茶をいれましょう。お上がんなさい」
大「いえ、仕事着で汚れますんで」
隠「そのようなことは気になさらないで。どうぞ」
大「さいですか…。じゃ、遠慮なく…」
隠「{奥へ}おいおい。支度をしておくれ。
 {大工に向き直って}やァ…、大工さん…。実に、あたしは恥ずかしい…。今日は、あ
 なたに教わりました…」
大「なんです…? そんなつもりはありません、あっしは…」
隠「最前、あなたがおっしゃいましたな。『後片付けも、仕事の内』『今日のことは、今
 日の内にやっておく』
  あたしもそういうことを知らなかったわけじゃないのですが、歳をとりますと、疲れ
 が先にでましてな。ついつい、大事なことをおろそかにしてしまいます。実に、あたし
 は恥ずかしい…。今日は、あなたに教わりました」
大「あっしは…、そんな大それたことをしたわけじゃねぇんで…。亡くなった親方によく
 言われましたんで。そいつが体に染み込んでまして、つい口から出ますんで…。あいす
 いません」
隠「以前、浅草の通覚寺の住職に、聞かされたことを思い出しました…。大工さん。あな
 た、親鸞上人をご存じでしょう」
大「しんらん…? え、え…、会えば、わかります…」
隠「これは恐れ入りますな。会えるもんなら、あたしもお会いしたいですな」
大「『そいつは、まったく、知んらん』なんてぇと、笑われそうですね。ですから、そう
 いうことは言いません」
隠「面白いことをおっしゃる。真宗をお開きになった、親鸞上人です」
大「あゝ、そうですか…」
隠「その親鸞上人が得度をお受けになったときのことです」
大「なんです、そのトクド…、というのは…?」
隠「お坊さんの仲間入りする儀式ですね。頭を丸めて、坊主になる」
大「なるほど…」
隠「今では集団で得度式を行なってるようですが、その当時はそんなこともなかったよう
 で。
  親鸞上人は伯父に連れられて、京都の青蓮院にやってきました。百人一首にも選ばれ
 てます、慈円僧正の剃刀で得度を受けるつもりでした。ところが、辺りはもうすっかり
 暗くなっておりました。
 『暗くなりましたから、あなたの得度は明日にしましょう』
  と、こう言われたときに、親鸞上人は
 『明日ありと 思ふ心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』
  と、こうおっしゃいました」
大「あゝ、そうですか…。やはり、手元が暗いと、剃刀で傷を付けますんで。そんときの、
 お呪いですか」
隠「お呪いじゃありません。道の歌、と書きまして、道歌と申します」
大「道歌…? その歌はどういうことなんですか」
隠「あたしも深いことはわかりませんが、
   明日ありと 思ふ心の 徒桜…
  つまり、<明日があるから、まだいいや、と思うその甘えが、仇になりますよ…>と
 でもいいますかな。
   夜半に嵐の 吹かぬものかは…
  <今、咲き誇っている桜も、一夜の嵐に吹き飛ばされないとも限らないのですよ>と
 いうことでしょう。つまり、<今日のことは、今日の内にやってください>ということ
 でしょうな」
大「ああ、そうですか…。道の歌ですか…。アスファルト…」
隠「アスファルトではありませんよ」
大「でも、道の歌だッてぇますから」
隠「面白いことをおっしゃいますな。
  ここに、通覚寺で貰った法話帳がありますから、差し上げましょう。のっけに書いて
 ございますから」
大「{受け取って}そうですか…。すいません。頂戴します。
  なるほど、書いてありますね。
   明日ありと… 思ふ心の… 徒桜…
  なるほど…。<明日があるから、まだいいや、と甘えちゃいけねぇ>ってぇやつだ。
   夜半に嵐の… 吹かぬものかは…
  この…、吹かぬものかはッてぇのは…? 吹かぬものッてぇのは、わかりますよ。吹
 かねぇてことでしょう。あとの、かはってぇのはなんです。親鸞さんの本名ですか」
隠「本名は恐れ入りましたな」
大「以前、水くぐるとはってぇやつで騙されてますから、あっしは」
隠「それは確か、落語の[千早ふる]でしたね」
大「そうです。あっしは長ぇこと、とはってぇのは<千早花魁の本名だ>と信じてました
 から」
隠「かは、というのにも打ち消しの意味がありますので、<風は吹かない、と、いうこと
 はない>。つまり、<吹く>ということでしょう。吹かぬものかは。ここいらは昔の言
 葉の難しいところですな」
大「つまり、<今日のことは、今日の内にやってくれ>って、催促だ」
隠「ま、そうですな」
大「けど、それをがさつに催促しねぇで、歌でやるなんざ、親鸞さんは乙だね」
隠「そこで、暗い中、蝋燭の明かりを頼りに、やっと得度をすませた。
  ですから、後年。真宗の得度は、昼間、あえて、戸を閉め切って暗くして、蝋燭の明
 かりの中でするのを習わしとしたそうです」
大「今でも、そうですか」
隠「そのようです。さァ、驚くのはこれだけではありませんよ」
大「もっと、凄ぇこと言ったんですか」
隠「そのとき、得度した親鸞上人の歳です。おいくつだと、思いますか」
大「ズバリ当てると、なんか、貰えますか…?」
隠「面白いことをおっしゃる」
大「いえ、べつに、欲しいわけじゃありませんが…。貰えるんだったら、真剣に考えます
 よ」
隠「なにか、欲しいものでもありますか」
大「あっしはトロロが好きなんです」
隠「トロロ芋ですかな?」
大「そうなんです」
隠「下ろしたのを麦飯にかける、麦トロという、あれですか…?」
大「この頃、そんなもんじゃ、もの足りませんで。トロロを下ろしたやつを湯船に大量入
 れましてね。そん中に首まで浸かって、洗いながらトロロをズーッとやるんです。トロ
 ロ風呂ッてやつで」
隠「こりゃ、驚きましたな。
 {奥へ}おいおい。家にトロロはあったかね」
大「旦那、本気にしないでくださいよ。これ、洒落ですから」
隠「{奥の人と}あるかい。どのくらい…? ウン、ウン…、そうか…。
 {大工に}大工さんや。あいにく、トロロ風呂にするほどはないそうだ。下ろしても、
 手桶に一杯くらいしかならないそうだ。顔だけでも洗いますか」
大「いえ、結構です、もう。なんにも要りません。欲を捨てて、歳を当てます。
  そういう歌を作ったんですから、二〇歳代じゃァ若すぎるな…。三〇代は忙しくて、
 歌どころじゃねぇだろう…。四〇代は他にやることはありそうだし、歌どころじゃねぇ
 …。五〇代は人付き合いで忙しいだろうし…。六〇代は足腰が弱くなって、歌どころじ
 ゃねぇし…。七〇代はそろそろボケが始まるし…」
隠「段々、歳をとりますな」
大「わかりません。いくつです…?」
隠「九つです」
大「え?!」
隠「九つ」
大「いくつと、九つです…?」
隠「ただの九つ」
大「たった九つで…、あの歌…? 嘘でしょう」
隠「そう伝えられております。ですから、真宗では得度は九つから受けられるのは、これ
 から由来するのです」
大「ほんとに、九歳で作ったんですかね…」
隠「まァ、実はこれには異説もありましてな。親鸞上人が前に聞かされた人さまの歌をそ
 の得度のとき、ふと、頭に浮かんで口から出ましたかな。あるいは、後世の者が真宗布
 教のために、作った歌かもしれません」
大「ふきょう…? ああ、やっぱり、昔も景気が悪かったんだ」
隠「その不況ではありません。教えを広めることを布教という」
大「そうですか。でも、どっちにしても、九つじゃ、舌だって、よく回らねぇはずだよ。
 だから、『明日ありと』なんて、スラスラと言えるはずァねぇやな。『あちゅありと』
 かなんか、言ったんでしょう。『おもう、ここりょの、あじゃじゃくりゃ』かなんか」
隠「舌を噛みますよ」
大「うちにも、餓鬼がいますが…、あッ!」
隠「…、どうかしましたか…?」
大「ちょうど、九つだ…。でも、親鸞さんとは、えれぇ違ぇだ…。なんか気に食わねぇこ
 とがあると、親を脅かしてきましてね。ああいう結構な歌はとてもできませんやな」
隠「そうですか。それはまた、ほほえましいですな」
大「ほほえましい…? 他人だから、そんなこと言えるんですよ。脅かされるこっちの身
 になってください」
隠「それは、それとして。しかし、大工さんのなさってることは、親鸞上人の歌の通り。
 たいしたものです。実に、あたしは恥ずかしい…。あなたに教わりました…。あなたは
 親鸞上人の再来かもしれませんな」
大「{その気になって}今まで…、人には言いませんでしたが…、親鸞はあっしの叔父な
 んです」
隠「これは驚きましたな。
 {奥からの声に}出来たかい…? そうか…。
 {料理が運ばれる}
 {大工に}さ、有り合わせだが、一杯やってください」
大「こりゃ、すいません。あっしは、酒はまるっきり駄目なんで」
隠「そうですか…。お仕事柄、おやりになると思ってましたが…。では、ご飯を召し上が
 ってくださいな。トロロを下ろしてあります。麦飯ではありませんが、やってください」
大「すいません。よけいなことを言っちまって。じゃ、いただきます」
  やっこさん、すっかりご馳走になって、屋敷を出た。

大「おっかあッ。今、帰ったッ」
女「お帰り。今日は遅かったね」
大「久しぶりに旦那がおいでになってさ。『まァ、いいから、いいから』ッてんで。つい、
 長居しちまったよ。
 {上がって、物に躓く}痛ぇッ…。なんだって、こんなところィ針箱を出しておくんだ
 よッ」
女「今、使ってたんだよ」
大「使ったら、仕舞っておけよ」
女「いいじゃないか、あたしの物なんだから」
大「自分の物、人の物じゃねぇんだよ。使ったら仕舞っておけッてんだよ」
女「あゝ、わかったよ。明日やるよ」
大「なにを…? 明日やる…? そうはさせねぇぞ。{もっともらしい口調で女房に迫る}
 『明日ありと…』」
女「なんだい、急に神妙な顔をして…? 目が座ってきたね」
大「『明日やる』って、それがいけねぇんだ。俺はそういうことをしねぇから、旦那に褒
 められて、御馳になったんだ。だから、お前も片付けろよ。褒めてやるから」
女「お前さんに褒められたって、嬉しかァないやね」
大「グズグズ言わねぇで、早く片付くろよ」
女「うるさいね、まったく。これで、いいのかい{針箱を足で動かす}」
大「足でやるなよ」
女「いいじゃないか。手でやろうと、足でやろうと。だいいち、あたしは手より足のほう
 が器用なの。蹴るのはうまくなったよ。なにしろ、鹿島生まれの、市原育ちなんだから」
大「よけいなこと言ってねぇで、手でやれ、手でッ」
女「うるさいね、まったく。手でやりゃいいんだろう、手で。ほらッ。やったよ、手で」
大「よし。じゃ、始めるぞ。『やァ、大工さん』」
女「なんだい、いきなり。大工はお前さんだろう。あたしはその大工に騙された、バカな
 女」
大「よけいなこと言うな。お前が大工でねぇと、話は進まねぇんだ。大工におなり」
女「わかったよ。じゃァ…、あたしは…、大工だよ…」
大「大工だな、お前は。『そうなると、やァ、実に、あたしは恥ずかしい』」
女「あたしのほうが恥ずかしいよ」
大「『今日は、あなたに襲われた』」
女「およしよ。襲われたのはあたしのほうだよ。お前さんは口説き文句も知らないし、お
 金もないもんだから、暗がりでもって、いきなり、あたしを突き倒して」
大「いいんだよ、そんなことは。『親鸞をご存じか』」
女「なんだい、出し抜けにッ」
大「ありがたい坊さんさ」
女「ありがたい坊さん…? そういえば、あたしも先日、ありがたい坊さんに出っくわし
 たよ」
大「お前が…?」
女「そうさ。こないだ、長屋のお牧さんたちと花札をやったんだよ。三光のできたところ
 へ、スーッと坊主が一枚きて、四光になったときは、ありがたい坊さんだと思って」
大「そういう坊主とは違うんだ。親鸞という人が得度に行ったときのことなんだ。お前、
 得度ってぇの、知ってるかい」
女「知ってるよ。三河屋の小僧の徳どん…」
大「そうじゃねぇ。得度ッ。正式に坊さんになる儀式のことだ」
女「あらッ…、徳どんが坊さんになったのかい」
大「そうじゃねぇんだ。親鸞さんがだよ。
  寺へやってきたときには、すっかり、辺りも暗くなってしまった。係りの坊さんが、
 『得度は、明日にしましょう』と言ったとき、親鸞さんがなんと言ったと思う?」
女「『疾くと(得度)考えておこう』って」
大「大喜利じゃねぇんだぞ。そんな馬鹿なことを言うかいッ」
女「言うかい…? あたしは空海てぇ人、知ってるよ」
大「もういいよ。そのとき、親鸞さんは歌をやったな」
女「どんな歌?」
大「明日の歌よ」
女「明日の歌…? 『明日は明日の風が吹く』って、唄ったのかい?」
大「道の歌。道歌ってんだ」
女「道の歌なら、あたしだって、知ってるさ。『お江戸ォ日本橋 七つゥ立ちィ』」
大「それは、東海道の道だ。そうじゃねぇんだ。そうじゃねぇよ。……、ウ……ン」
女「どうしたの? 歌は…」
大「……、なにしろ、暗いからすぐには出来なかった」
女「苦しい言い訳だね…」
大「こういうことも、あろうと、旦那から法話帳を貰ってある。見ろッ」
女「あたしに、読ませるのかい。そりゃ、威張りすぎだよ。あたしは、べつに読みたくは
 ないんだから。だいいち、聞きたくもない」
大「うるせえッ。じゃ、読んで聞かせるぞ、いいか。
   明日ありと 思ふ心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは…
  どうだ」
女「ああ、それね。聞いたことある」
大「聞いたことある…?」
女「〔今日のことは、今日の内にやっておきなさい〕ッてんだろう」
大「そうだよ。よく知ってるな」
女「あたしのお父つぁんがよく言ってたよ。こっちは小さい頃から、耳にタコができるほ
 ど聞かされたよ」
大「お前のお父つぁんが言ってたの。いやな親だね、まったく。
  吹かぬものかはってぇのが肝心なんだぞ。かはッてぇのは、親鸞さんの本名じゃねぇ
 んだぞ」
女「わかってるよ、そのくらい」
大「親鸞さんの歌が通じて、その日の内にやってもらった。だから、真宗では未だに、得
 度式は、昼間、戸を閉め切って、暗い中でやるんだ」
女「あら、昼間っから…、閉め切って…? まァ、あたしたちも、最初はそうだったね、
 お前さん」
大「なにを言ってんだ、お前は。そのとき、親鸞さんはいくつだったと思う。驚くな。九
 つだ」
女「九つ…? いくつと九つ?」
大「それみろ、驚いたろう。座ってても、たったの九つよ」
女「九つで、そんな生意気な歌ができるかね」
大「だから、天才なんだよ、親鸞さんは」
女「九つじゃ、舌だって回らないはずだよ」
大「俺もそう思った。だから、旦那に言ったんだよ。でも、確かに九つで、ちゃんと言っ
 たらしいんだ。
  そんとき、思ったよ。うちにも、九つの餓鬼はいるけど、大変な違いだなって…。遊
 び放題、遊ぶが、そのあとを片付けるということをしねぇからな。いねぇのか、餓鬼は」
女「ちょうど、表から帰ってきたよ」
大「{子供を見て}あゝ、来やがった。いつまで、外で遊んでんだ、金坊ッ。こっちィこ
 いッ」
金太「あゝ…、いやがったね、トンカチッ」
大「なんだ、トンカチッてぇのは」
金「あゝ、違った。お父つぁん、大工だから、つい、『トンカチ』と言っちゃうんだ。ほ
 んとは、『トンチキ』と、言おうと思ったの」
大「なお悪いやッ。そんなことより、お前は九つなんだから、しっかりしろよ。見ろ。お
 前が遊ぶんで出しっ放しにした物が、どっさり転がってるだろう。片付けておけッ」
金「いいよ。どうせ、また、遊ぶんだもん」
大「そんときは、また、出しゃいいんだ。だから、早く片付けろよ。今日のことは、今日
 の内にやるもんだッ」
金「出しっ放しにしたのは、先月なんだよ。だから、そういうことは先月の内に言ってく
 れねぇと、困るんだよ」
大「屁理屈を言うな!」
金「気がついた者がやっとけば、いちばん早ぇんだ。お父つぁん、片付けといてッ。じゃ、
 また、遊びに行ってくる!」
大「この野郎! マゴマゴしてると、得度に出して、坊主にしちまうぞ!」
金「お父つぁんこそ、葬を出して、墓の下に入れてやる!」
大「うるせぇ! もう帰ってくんな!」
女「{女房が亭主に}子供にやられて、どうすんだね。そんなことより、おまんま、どう
 するんだい」
大「旦那のところで御馳んなったから、いいさ」
女「なんだね。そんなら支度をするんじゃなかった。いえね、源さんから、お前さんの好
 きなトロロ芋を貰ったからさ」
大「トロロを?!」
女「そう」
大「そうか。でも、今、腹が満腹だしな…」
女「なんだね、せっかく、貰ったのに。あたしだって、一緒に食べようと、小腹ァ空かし
 て待ってたんだァな。一口でもいいから、おやりよ。麦飯も焚いたんだから」
大「いいよ。明日やるから」
女「…、そうはさせないよ」
大「なんだい…。今度はお前の目が座ってきたね」
女「{急に神妙な顔をして}明日ありと…… 思うトロロの… 麦御飯…… 今にあたし
 が 食わぬものかは」
99.10.3 UP