圓窓五百噺ダイジェスト(く行)

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九品院蕎麦地蔵(くほんいんそばじぞう)

圓窓五百噺ダイジェスト 65 [九品院蕎麦地蔵(くほんいんそばじぞう)]

 浅草広小路の尾張屋という蕎麦屋に品のいい老人が入ってきてもどかしげにモリ
を注文した。蕎麦は初めてなのか、その食べ方がわからないらしく、常連の太久郎が
手を取るように蕎麦通の食べ方を教えた。
 老人は翌晩も「この店の前でうずくまっていた」という十歳くらいの男の子を連れ
て入ってきた。子の名前は二八(にはち)といい、迷子であった。子供ながら蕎麦
好きと見えて、老人より上手に手繰った。
 二八はこの店で預かることとして、翌日から大勢で親元を探したが一向にわからな
い。もちろん、老人と太久郎は毎晩のように土産を手に顔を出して、二八を見守った。
 やっと、親元の長屋を知ったが、二親は先日の火事で焼死したとのこと。そこで、
二八は蕎麦屋が我が子として引き取ることになった。
 ある日、店主が老人に日頃のお礼として蕎麦粉を差し上げたが、老人がそれを忘れ
て店を出て行った。店主がそのあとを追うと、田島町の誓願寺の山門を潜って西慶院
の境内に入ったところで老人の姿が見えなくなった。はてなと、思いながらそばの地
蔵菩薩をお参りして店に帰った。
 その晩。寝込んだ夢枕にその地蔵菩薩が立った。「われは西慶院の地蔵菩薩である。
参詣人の『尾張屋の蕎麦は旨ぇの旨くねぇ』の声を耳にして、毎晩、隠居風に姿を変
えて尾張屋に顔を出してモリを食しておる。よくぞ、二八を子として引き取ったのぅ。
 報返しとして、尾張屋一家の災難を払い、悪病から守って遣わそう。努々(ゆめゆ
め)疑うことなかれ」
 そんなことから、尾張屋は毎日、地蔵菩薩に蕎麦をお届けして供養した。天保七年
に流行り病が蔓延して浅草でも大勢の死人が出た。ところが、尾張屋の一家だけは無
事息災。これが噂となって、尾張屋はますます門前市をなすほどに盛況。また「この
地蔵菩薩に祈願、そして成就の折には蕎麦を供養するといい」と言われて、「蕎麦喰
い地蔵尊」の名が付いた。
 ある日、尾張屋の親子三人が地蔵菩薩にお礼参りすると、地蔵に「仏も喜んでおる」
と言われてびっくり。
 尾張屋「あたくしは仏さまには蕎麦を差し上げたことはございませんが」
 地蔵「仏もとうに食しておる。わしがこうして蕎麦を(食べる形をする)手繰ると
   なぁ、ここに喉仏がおいでになる」
 明治末期に誓願寺西慶院は九品院に吸収されて、昭和四年にこの練馬に移転。現在
の九品院です。ご住職・藤木和尚から話を聞かされたことがある。
 住職「この蕎麦喰い地蔵菩薩の教えは『自業自得。良いことをすると必ず良いこと
   が返ってくる。悪いことをすると必ず悪いことが返ってくる。どうせなら良い自
   業自得をしましょう』ということです」
 圓窓「良いことも悪いこともしないのに、巻き添えを喰らうことがあります。先日
   も蕎麦屋でせいろをやってましたら、奥の客同士が喧嘩を始めて、茶碗がこっ
   ちへ飛んできて、足にあたってえらい目にあいました」
 住職「それは、側(蕎麦)杖を喰ったのでしょう」

(圓窓のひとこと備考)
 ソバリエのみなさんからこの昔話の落語化を依頼されて、なんとか一席にした。そ
の発表会は九品院の本堂で第2回・蕎麦喰地蔵講の企画として開かれた。住職の法話、
圓窓のこの創作噺、そしてソバリエの手打ちの蕎麦の振る舞い。「仏・落語・蕎麦」
の江戸好みが揃った一日であった。
2006・7・29 UP