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圓窓五百噺 その番外 文学落語

 お 富 の 貞 操(おとみのていそう)

原作 芥川龍之介「お富の貞操」
脚色   六代目 三遊亭圓窓
口演   六代目 三遊亭圓窓


登場人物
古河屋の下女 お富(一八歳):後の   時宝屋の女房(三一歳)
乞食 新公(二〇歳):後の 村上新三郎源繁光(三三歳)
猫 ミケ( 一歳):後の    時宝屋の猫(一三歳)
店の前に立った 子供一( 八歳)
店の前に立った 子供二( 十歳)


  ミケ「あたしは猫である。名前はすでにある。どこで生れたかとんと見当はつか
    ぬが、捨てられたところは覚えている。上野の山の中で、なんでも薄暗いじ
    めじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。
     そのあと、そこを通りかかった古河屋のおかみさんに拾われたんです。
     ということで、すぐにミケという名前を付けてもらいました。白黒茶の三
    色だからミケといとも簡単な名前です。オスです。『オスのミケは貴重なん
    だよ』と言われてますが、どこが貴重なんですか、未だにわかりませんがね。
     あたしは今年で十三歳になりますから、人間で言えば、六、七十歳の老人
    かもしれませんね。


     人間は猫の言葉はわかりませんでしょう。
     クジラ、イルカ、猿の言葉を研究している方は随分といるそうですが、猫
    語の研究家は日本にはまだいません。
     しかし、猫は人間の言葉はわかるんです。だからこそ、社会、家庭に入り
    込んで巧くやっていけるんですよ。犬より家の中には入り込んでいますから
    ね。
     人間のことはなんでも知ってます。良いこと、悪いこと。黙ってますがね。
    実名入りで話もできますよ。しかし、それを出すと御幣があるでしょう。
    『イニシャルだけでも』と言う人もいますがね。


     今、あたしが話しているのは猫語ではありません。人間の言葉です。しか
    も、日本語。しかし、その日本語も通じなくなってきてますね。寂しい限り
    ですよ。
     さて、あたしの話を聞いてくださいますか? 歴史の変動の中で生き抜い
    てきたっもりです。


     今日は、明治十二年の四月に入りましたね、もう。
     ここは、上野広小路にある時計屋、店の名を時宝屋といいます。『時は金
    なり』という言葉から取ったんでしょうね、きっと。その店の大きなウィン
    ドケースの中に、あたしは横たわっているんです。そうです、外からも見ら
    れるようになっています。
     今、あたしの回りは高級な時計ばかりですよ。『豚に真珠』ならぬ、『猫
    に時計』。まったく似合わないと、お思いでしょう。
     あたしは時計に興味があるわけでもありませんから、『猫に小判』と言っ
    てもらいたいですね。


     いつだったんですか、あたしの独り言をこのウインドウケースの前に立っ
    たお客さまに聞かれましてね。それが密かに知れ渡りまして、聞きにいらっ
    しゃる方が増えたんですよ。今日はまた一層倍、多いですね。
 

     今日は十二年前のお話をしましょう。時は明治元年五月十四日の昼過ぎ。
     その頃、あたしは下谷町(したやまち)二丁目の小間物店、古河屋政兵衛
    (こがやせいべい)宅に住んでいました。とくに、そこのおかみさんが可愛
    がってくださいましてね。家にいるときは、あたしを片時も離しませんでし
    た。まぁ、あたしを拾ってくださった方ですから、当たり前と言やぁ当たり
    前なんですがね。
     あたしも二歳という可愛い盛りでした。


     その日は、朝っぱらからお達しがありました。
    『官軍は明日の夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野界隈の町家の
    ものは早々にどこへなと立ち退いてしまへ』って。
     さぁ、それからが大変ですよ。店の者が大忙しです。屋財貨財(やざいか
    ざい)を運び出そうという訳で。騒々しいので、あたしがうっかりニャァニ
    ャァと鳴いたら、「猫の手はあるんだが、こいつは貸してくれねぇし」って
    面ぁ掴んで言われましたよ。
     ということで、家の人たちはみな立ち退いてしまって、人っ子一人いない
    んです。
     実は、引き払う支度の最中、おかみさんはあたしの名を呼び続けていまし
    た。しばらく他のことはせずに、あたしを捜してました。
     あたしはおかみさんには申し訳なかったんですが、縁の下に隠れて姿を現
    しませんでした。猫は本来、家に居付くです。ですから、引越しはもちろん、
    改築すら好みません。古くなってもそのままのそこにいたいんです。
     おかみさんのそばにいたいという、心持ちは充分にありました。でも、猫
    が本来もって生まれた『居っいた所からは離れられない』というその場所へ
    の義理みたいなものが、そうさせるのです。この先、自分がどうなるか、そ
    んなことは考えないのです。この騒ぎで、死ぬか、生きるか……。人間がし
    でかしたことですから、そう深くは考えないことにしているんです。ですか
    ら、縁の下でじっとしていたんです。どうせ逃げても同じ、ということもち
    ょいとばかりあったのかもしれません。出ませんでした。


     戦って嫌ですね。戦う人はなにか言い分があるんでしょう、きっと。言い
    分が違うから戦になるんでしょうな。どちらも世の中を良くしようと思って
    戦になるんでしょうがね、きっと。しかし、怖いのは、これが癖になってく
    るんですよ。世のため人のためではなく、勝利の美酒を味わいたくて相手を
    見っけては戦を仕掛けるようになるんですよ。
     あたしたち猫も言い分が違って、争うことはありますが、大勢固まってや
    ることはありません。一匹対一匹です。
     人間はどうでしょう。大勢が固まって、何日も何ヶ月も。その他の人たち
    はただ逃げるだけでしょう。それも命がけで。それで命を落とす人々も大勢
    いるんでしょう?


     おっと、すいません。話がそれちまいました。
     そんなことで、おかみさんは涙声で立ち去って行きました。あたしも悲し
    くなりました。
     でも、あたしは、おかみさんには悪いんですが……、久し振りにのんびり
    できそうなんです。なぜって、普段ですと、店の者やお客さんに「可愛い、
    可愛い」って褒められるのはいいんですが、抱かれたり、顔をおっ付けられ
    たりされて、嬉しそうに喉をゴロゴロ言わせたりはしますが、本当は辛いん
    です。赤裸々に逃げ出すわけにはいきませんから、世辞愛嬌で少しはそばを
    離れずに相手をしますがね。
     ですから、今日はその相手がいませんから、台所の隅の蚫貝(あわびっか
    い)の前にのんびりと一匹静かに香箱(こうばこ)を作っていたんですよ。
     そうそう、香箱を作るって言葉もわからなくなってきました。早い話が日
    向で体を小さくして動かさずにいることなんです。人間にも当てはまります
    よ。「あの爺さんはいつも香箱を作って日向ぼっこしている」って、あれで
    すよ。
     あたしが香箱になって、じっとしていたんです。
     戸を閉め切った家の中は、もちろん昼過ぎでも真っ暗でした。人音も全然
    聞えません。ただ耳に入るのは連日の雨の音ばかりでした。雨は見えない屋
    根の上へときどき急に降り注いでは、いつかまた中空へ遠のいて行くんです。
    あたしはその音の高まる度に、自慢の琥珀色の眼をまん丸にしました。竈さ
    へ見えない台所にも、この時だけは無気味な燐光が射してきました。
     でも、ざぁっという雨音以外に何も変化のないことを知ると、あたしはや
    はり身動きもせず、もう一度、眼を糸のように細めました。


     そんなことが何度か繰り返されるうちに、あたしはとうとう眠気に襲われ
    てしまったのか、眼を明けていることもできず、とろとろっと、し始めまし
    た。
     しかし、雨は相変かわらず急になったり、静まったりして、どうやら、昼
    もだいぶ回って、八つ、八つ半……、午後の二時から三時です。時はこの雨
    音の中に流れて、だんだん日の暮へ移って行きました。
     七つですから、ちょうど四時に迫った時でしょう。あたしは何かに驚いた
    ように突然、眼を大きくしてしまいました。同時に耳も立てたのです。
     が、雨は今までよりも遙かに小降りになっていたんです。往来を馳せ過ぎ
    る駕籠舁きの声、エッホイ、エッホイ、エッホイ。その外には何も聞えない
    んです。
     しかし、そのすぐ後、真っ暗だった台所はいつの間にか、ぼんやりと明る
    み始めました。狭い板の間を塞いだ竈(かまど)、蓋のない水瓶の水光り、
    荒神さまの松、引き窓の綱。そんな物が順々に見えるようになったんです。
     あたしはいよいよ不安になって、戸の開いた水口を睨みながら、のっそり
    と大きい体を起しました。
     このとき、この水口の戸を開けて、腰障子も開けたのは、濡れ鼠になった
    乞食だったのです。その乞食は古い手拭を被った首だけを家の中へ伸ばした
    なりで、しばらくは静かな家の気配にじっと耳を澄ませていましたが、人音
    のないのを見定めると、入ってきました。
     見ると、酒筵(さかむしろ)だけが真新しくて、鮮かな濡れ色を見せたま
    ま、そっと台所へ上って来たんです。
     あたしは耳をひらめて、その乞食を見ながら二足三足、跡ずさりをしまし
    た。
     しかし、乞食は驚きもせず、後ろ手に障子を閉めてから、おもむろに顔の
    手拭をとったんです。顔は髭に埋まった上、膏薬も二、三個所、貼ってあっ
    て、垢にまみれていても、眼鼻立ちはむしろ、すっきりと目立ちました」


乞食「ミケ……。ミケ……」


  ミケ「乞食は髪の水を切ったり、顔の滴を拭ったりしながら、小声であたしの名
    前を呼ぶんです。
     あたしはその声に聞き覚えがありました。あいつです。あの乞食です。こ
    の辺りをうろつく新公(しんこう)という乞食なんです。
     なんだって、いま時分、新公が……。あたしはすぐにひらめていた耳をも
    とに戻しました。でも、まだそこに佇んだなりで、ときどきはじろじろとそ
    の顔へ疑い深い眼を注いでやりました。
     その間に酒筵を脱いだ乞食は脛の色も見えないほどの泥足のまま、あたし
    の前へどっかり胡座(あぐら)をかくではありませんか」


新公「ミケ公。どうした? 誰もいないところを見ると、貴様だけ置き去りを食わさ
  れたな」


  ミケ「乞食は独り笑いしながら、大きい手であたしの頭を撫でるんです。
     あたしはちょいと逃げ腰になりましたが、それぎり飛び退きもせず、かえ
    ってそこへ坐ったなり、だんだんと眼を細め出してしまったんです。
     乞食はあたしを撫でる手を止めると、今度は古浴衣の懐からなにやら油光
    りのする物を取り出しました。
     あたしはびっくりしました。短銃だったんです。
     そうして、覚束(おぼつか)ない薄明りの中で引き金の具合を調べ出しま
    した。
     薄眼になったあたしは、この不気味な光景を背中を丸くしたまま、一切の
    秘密を知つているような顔をして、冷ややかに坐っていました」


新公「明日になるとな、ミケ公。この界隈へも雨のように鉄砲の玉が降ってくるぞ。
  そいつに当たると死んじまうから、明日はどんな騒ぎがあっても、一日中、縁の
  下に隠れているんだぞ、いいな。
   お前とも永いお馴染だったな。が、今日がお別れだぞ。明日はお前にも大厄日
  だ。俺も明日は死ぬかも知れない。よしまた、死なずにすんだところが、この先、
  二度とお前と一緒に掃き溜(はきだ)め漁(あさ)りはしないつもりだ。そうな
  れば、お前は取り分が独り占めになるから、大喜びだろう」


  ミケ「乞食をやめるつもりなんですかね……。やめられるかなぁ。乞食は三日や
    るとやめられないと聞いてますよ。
     あたしも捨てられて、おかみさんに拾われるまで、野良をやってましたか
    ら、掃き溜め漁りはさんざっぱらやってきました。これで、なかなか面白い
    もんなんですよ。
     拾われてからはおまんまの心配もなくなって、掃き溜め漁りはしなくても
    いいんですが、ときどきしたくなるんですよ。おかみさんには内緒でね。
     一度、見付かってきつく怒られました。『うちのご飯が気に食わないのか
    いッ。みっともない真似はおしでないッ。お前はそこらの長屋の猫じゃない
    んだ。古河屋の立派な猫なんだよッ』って。おかみさんの大きな眼には涙が
    いっぱい溢れてんですよ。『ああ、悪いことをしたな』って、すぐに鳴いて
    謝りました。
     ところが、新公の漁ってんのを見ると、どうしても昔が懐かしくって、つ
    い……、手が出ちゃうんですよ。で、おかみさんの目を盗んじゃぁ、ときど
    き……。言わば、新公とは掃き溜め漁りの仲間ですかね。
     おっと、話が汚らしくなりました。


     そのうちに、雨はまた、ひとしきり、騒がしい音を立て始めました。雲も
    棟瓦を煙らせるほど、ちかぢかに屋根に押し迫ったのでしょう。台所に漂っ
    ていた薄明りは、前よりも一層、かすかになってきました。
     ところが、乞食は顔もあげず、やっと調べ終った短銃へ、丹念に弾薬を詰
    め込んでいました」


新公「それとも、名残りだけは惜しんでくれるか? いや、猫というやつは三年の恩
  も三日で忘れるというから、あまり、当てにはならなそうだな。でも、お前はこ
  こへきて、まだ二年もたってねぇよな。
   お前はこの家の役に立っているのかね? 猫はあまり役にたたねぇもんだ。あ
  る人が言ってたよ。『竈の番をしている竈猫がいます』って。あれはそうじゃね
  ぇんだよ。猫は寒がりだから竈の火が消えるといつの間にか潜り込んで暖まって
  いるんだ。家の者に追い立てられて灰だらけで飛び出すんだ。猫灰だらけってや
  つだ。
   そのかわり、怖いのは、『なにもかも知ってをるなり竈猫』って句があるくら
  いで、家のことはなんでも知っているんだよ。お前もそうか? なにを知ってい
  る?
   黙ってやんな、お前は。『見ても見ぬ聞ひても聞かぬ竈猫』って、この家の恥
  は晒さないね、お前は。


   お前に芸を教えてやろう。招き猫をやって、福や客を招いてやんな。{猫の手
  をとって}こうして右手をあげて、手首をちょいちょいと前へ倒して招くんだ。
 {手を離す}やってごらん。
   あぁあ、手を下ろしちまったよ。やる気がねぇんだか、出来ねぇんだか。無芸
  大食かな、お前は? 右手をあげてやると、金や運がくる。左手をあげると、客
  や友がくるそうだ。やってみろよ、教えたんだから。駄目だ、こいつは。欲がね
  ぇのかな。アッハハハハ……。
   まぁ、そんなことはどうでもいいや。ただ、お互いに会えなくなると、寂しい
  な……。いい世の中になって、お互いに生きていたら、会いてぇなぁ。そうだろ
  う。な、約束をしよう、いつかまた会おうじゃねぇか。
   おぅ、手を出せ。握りっこしよう。『ゲンマン、ゲンマン嘘つくな。嘘ついた
  ら、針千本飲ぅます』って、……っ」


  ミケ「乞食は急に口を噤(つぐ)みました。
     途端に誰かが水口の外へ歩み寄ったらしい気配がした。
     乞食が短銃を仕舞うのと振り返るのと、同時でした。いや、その外から水
    口の障子ががらりと開けられたのも同時でした。乞食はとっさに身構えなが
    ら、入ってきた者とまともに眼を合せました。
     すると、障子を開けた者は乞食の姿を見るが早いか、かえって不意を打た
    れたように、『あッ』とかすかな叫び声を洩らしたんです。それは素跣(す
    はだし)に大黒傘を下げた、まだ年の若い女でした。
     女はふいに、もと来た雨の中へ飛び出そうとしたが、最初の驚きから、や
    っと気を取り直すと、台所の薄明りに透かしながら、じっと乞食の顔を覗き
    込むのでした」


お富「何だい、お前は新公じゃないか?」
新公「お富さんかい、どうも相すいません。まさか、お富さんとは……」
お富「気安く呼ばないでおくれよ、お富さんだなんてっ」
新公「どうも相すいません、姐さん。あんまり降りが強いもんだから、ついお留守へ
  入り込みましたがね。なぁに、明き巣狙いに宗旨を変えたわけでもないんだがね」
お富「驚かせるよ、ほんたうに、新公は。いくら明き巣狙いじゃないと言ったって、
  ずうずうしいにもほどがあるじゃないかっ。さぁ、外へ出ておくれよ。わたしは
  家ぃ入るんだから」
新公「へぇ、出ます。出ろとおっしゃらないでも出ますがね。姐さんはまだ立ち退か
  なかったんですかい?」
お富「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども……、まぁ、そんなことはどうでも
  いいじゃないか……」
新公「すると、なにか忘れ物でもしたんですね。まぁ、中ぃお入ぃんなさい。そこで
  は雨がかかりますぜ」


  ミケ「お富さんはまだ業腹(ごうはら)そうに返事もせず、入ってくると、水口
   (みずぐち)の板の間へ腰を下して、流しへ泥足を伸ばすと、ざあざぁざあざ
    ぁと水をかけ始めました。
     平然と胡座をかいた乞食は髭だらけの顎をさすりながら、じろじろとその
    姿を眺め始めました。
     実は、お富さんというのは、この家の下女なんです。色の浅黒い、鼻の辺
    りにそばかすのある、まことに田舎者らしい顔付きで、なりも召使いに相応
    な手織木綿の一重物に小倉の帯を締めているだけで、他に一切の飾り物はあ
    りませんでした。しかし、活き活きした眼鼻立ちや堅肥りの体つきには、ど
    こか新しい桃や梨を思わせる美しさがありました」


新公「この騒ぎの中を取って返したてぇことは、なにか大事な物を忘れたんですね。
  なんです、その忘れ物は? え? 姐さん。いやさ、お富さん。お忘れ物は、え
  ?」
お富「与三郎のつもりかい? 汚い与三郎だね、まったく。それよりさっさと出てっ
  ておくれよっ」
新公「へいへい、畏まりました」
お富「……、ちょいと、新公……。お前、家のミケを知らないかい?」
新公「ミケ? ミケはここに……、おや……? どこぃ行きゃがったらう。一緒にい
  たんですよ、ここに……」
お富「あッ、いたッ。 あそこにッ」
新公「ああ、いましたね。棚の擂鉢(すりばち)と鉄鍋の間に入って、ちゃんと香箱
  を作ってますね」
お富「ミケ、ミケ。迎えにきたよ。ここを引き払うとき、おかみさんがあれほど呼ん
  だのに、どこぃ行ってたんだい。半(なか)らあきらめていたんだけど、来てよ
  かった。さぁ、こっちぃおいで。棚から降りておいで」
新公「猫ですかい、姐さん、忘れ物というのは?」
お富「猫じゃ悪いのかい?
  {棚のミケへ}ミケ、ミケ。さぁ、下りておいで」
新公「アッハハハハ。そうですか、猫だったんですか。アッハハハハ」
お富「なにが可笑しいんだいッ。うちのおかみさんはねぇ、『このままではいけない、
  やはりミケを探し出さなくちゃいけない』って、気違いのようになっているんじ
  ゃないかッ。『ミケが死んじまったら、どうしよう』って、泣き通しに泣いてい
  るんじゃないか。笑うやつがあるかいッ。
   わたしもそれが可哀そうだから、雨の中をわざわざ帰って来たんじゃないかッ
  ……。笑うやつがあるかい……。おかみさんが可哀そうだよ……。ミケが可哀そ
  うだよ……」
新公「ようござんすよ。もう笑やぁしませんよ。もう笑やぁしませんがね。まぁ、考
  えてごらんなさい。明日にも戦が始まろうというのに、たかが猫の一匹や二匹の
  ことで……。これはどう考ぇたって、可笑しいのに違いありませんやな。
   お前さんの前ですがね。ここのおかみさんくらい、世間知らずで、わからず屋
  のしみったれはありませんぜ。だいいち、官軍が勝つか、徳川が勝つかの騒ぎの
  中を、あのミケ公を探しにやらすなんて」
お富「お黙りッ。おかみさんの悪口なぞは聞きたくないよッ」


  ミケ「乞食の新公はお富さんの権幕には驚きません。のみならず、その眼はお富
    さんのその姿を無遠慮にしげしげと舐め回しているようなんです。
     あたしも、遅まきながら、そのときのお富さんの姿は鉄火な美しさそのも
    のと見ました。雨に濡れた着物や湯巻、それらはほとんど、ぴったり肌につ
    いているだけに、裸体をあらわに物語っていたようなもんでした。それも、
    一目見ただけで、生娘を思わせる、若々しい体を語っていました」

新公「お富さんや……。おかみさんだって、わかっているはずでしょう。ねぇ、そう
  じゃありませんか? 今じゃ、もう上野界隈、立ち退かない家はありませんや。
  してみれば町家は並んでいても、人のいない野原と同じこった。まさか狼は出な
  いだろうが、どんな危い目にあうかも知れない、と、誰だってわかるでしょう。
  あのミケ公を探させにお前さんをよこすなんて」
お富「そんな余計な心配をするより、さっさと猫をとっておくれよ」
新公「それより、お前さんの身だよ」
お富「なにさ、すぐに戦が始まりゃしまいし、なにが危いことがあるものかね」
新公「冗談言っちゃいけません。こういうときに若い女の一人歩きが危くなけりゃ、
  世の中に危いということはありませんや。早い話がここにいるのは、お前さんと
  わたしと二人っきりだ。万一、わたしが妙な気でも出したら、お富さん、お前さ
  んはどうしなさる、え?」
お富「なんだい、新公。お前はわたしをおどかそうっていうのかい?」
新公「ああ、おどかすだけなら、いいじゃありませんか。肩に金切(きんぎ)れなん
  ぞくっ付けていたって、風の悪いやつらも多い世の中だ。まして、わたしは乞食
  ですぜ。おどかすばかりとは限りませんや。もし本当に妙な気を出したら……」
お富「生意気なことをお言いでない。この傘でぶたれたいのかいッ」


  ミケ「お富さんは新公の頭へ力いっぱいに傘を打ち下した。
     新公はとっさに身をかわそうとしたが、遅かった。肩をしたたか、打ちす
    えられました。
     この騒ぎにあたしは驚いて、鉄鍋を一つ蹴落としながら、荒神さまの棚へ
    飛び移ったんです。
     と同時です。荒神さまの松や油光りのする燈明皿(とうみょうざら)が新
    公の上へ転げ落ちたもんで、新公は体を横に倒しました。その体を起こそう
    とする前に、お富さんの傘が打ち下ろされました」


お富「こん畜生! こん畜生!」


  ミケ「でも、やはり、新公は男です。打たれながらも、とうとうその傘を引った
    くって、そいつを投げ出すが早いか、お富さんに飛びかかったんです。
     二人は狭い板の間の上に、しばらくの間、揉み合ったり掴み合ったりして
    いました。
     あたしは新公とは掃き溜め漁りの仲間ですが、こうなりゃ、もちろんお富
    さんの味方です。でも、あたしにはどうすることもできません。棚から見て
    いるだけでした。
     猫が悪者に向かって大暴れをするなんていうのは、絵物語ですよ。猫は元
    来、気が弱くって、すぐに逃げ出すだけなんです。でも、悪く思わないでく
    ださいよ、『お富さんを見捨てた』なんて……。


     この立ち廻りの最中に、雨はまた台所の屋根へ、ザアーーーーッというす
    さまじい音を集め出しました。光も雨音の高まるのと一緒に、見る見る薄暗
    さを加えて行きました。
     新公は打たれても、引っ掻かれても、しゃにむにお富さんをねじ伏せよう
    としてました。しかし、何度か仕損じました。が、やっとお富さんを組み伏
    せたと思ったんですが、また弾かれたように、水口の方へ飛びすさりました」


新公「この阿魔(あま)ぁ!」


  ミケ「ついに、新公の口から汚い言葉が飛び出しました。新公は障子を後ろにし
    たまま、じっとお富さんを睨みつけてました。
     髪も壊れたお富さんは、べったり板の間に坐り込んだんですが、帯の間に
    挾んで来たらしい剃刀(かみそり)をいつの間にか逆手に握っていました。
    それはすごい殺気を帯びてました。同時にまた、妙になまめかしいんです。
     二人はしばらく無言のまま、相手の目の中を窺(うかが)い合っていまし
    た。
     すると、新公はわざとらしく小さく笑いを見せると、懐からさっきの短銃
    を出したんです」


新公「さぁ、いくらでもじたばたしてみろッ」
お富「……、……」


  ミケ「なにも言わないお富さんに業をにやしたか、思い付いたように短銃の先を
    上に向けました。その先には薄暗い中に、琥珀色の目をほのめかしている、
    あたしがいるのです」


新公「いいかい、お富さん? この短銃がドーンと言うと、あの猫が逆さまに転げ落
  ちるんだ。お前さんにしても同じことだぜ。いいかい?」
お富「新公! いけないよッ。打っちゃいけないよッ」
新公「いけねぇのは知れたことった」
お富「打っちゃ可哀さうだよ。ミケだけは助けておくれ」
新公「じゃ、猫は助けてやろう。その代り……、お前さんの体を借りることにするぜ」


  ミケ「お富さんはちょいと目をそらせました。一瞬、お富さんの心の中には、憎
    しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その他いろいろの感情がごったに燃え立ってきた
    んでしょう、きっとそうです。
     新公はお富さんの変化に注意深い目を配りながら、横歩きになってお富さ
    んの後ろぃ回ると、茶の間の障子を開け放ったのです。茶の間は台所に比べ
    れば、一層薄暗いのですが、立ち退いた際、取り残された茶箪笥や長火鉢は、
    その中にはっきり見ることができました。
     新公はそこに佇んだまま、お富さんの襟元へ目を落しました。そこは、か
    すかに汗ばんでいるように、あたしにも見えました。
     すると、お富さんはそれを感じたのか、体をねじるようにして、後ろにい
    る新公の顔を見上げたんです。その顔にはもういつの間にか、さっきと少し
    も変らない、活き活きとした色になっていました。
     と、新公は困ったように妙な瞬きを一つしながら、いきなり、また、あた
    しへ短銃を向けたんです」


お富「いけないよッ。いけないってばッ。ほら、{剃刀を板の間へ}剃刀は手離した
  よ」
新公「うん、いい心柄だ。じゃぁ、向こうの茶の間へお行きなさいな」
お富「いけ好かないッ」


  ミケ「お富さんはあきらめたのか、立ち上がると、不貞腐れた女のするように、
    さっさと茶の間へ入って行きました。
     雨はもうそのときには、ずっと音をかすめていました。おまけに雲の間に
    は、夕日の光でも射し出したのか、薄暗かった台所もだんだん明るさを加へ
    て行きました。
    新公はその中に佇みながら、茶の間の気配に聞き入っていました。
     小倉の帯の解かれる音……、足許へ落ちる音……、畳の上へ寝たらしい音
    ……。茶の間は、し――んと静まり返っています……。
     新公はちょいとためらいを見せた後、薄明るい茶の間へ足を入れました。
     あたしも首を伸ばすようにして目を茶の間へやりました。
     茶の間の真ん中にはお富さんが一人……、すっかり観念をしたのか、顔を
    袖で覆ったまま、じっと仰向けに横たわっていました。
     新公はその姿を見るが早いか、どうしたことか、逃げるように台所へ引き
    返したのです。その顔にはなんとも言いようの出来ない、妙な表情が漲って
    いました。それは嫌悪のようにも見えれば、恥じたようにも見えるのでした。
    新公は板の間へ出たと思うと、まだ茶の間へ背を向けたまま、突然、苦しそ
    うに笑い出したんです」


新公「アッハハハ、冗談だ、冗談だ。お富さん、冗談だよ。もうこっちぃ出て来てお
  くんなさい」


  ミケ「…………、どのくらい経ったでしょうか。お富さんが茶の間から戻ってき
    ました。
     それが……、ばつの悪そうな……、どうしていいのかわからないような顔
    をしているんですよ。
     新公もそうでした……。
     二人共、妙な顔でした。あたしが初めて見る顔でした。


     そのうちに、あたしは新公の手で棚から下ろされ、お富さんの袂に包まっ
    て抱かれました」


新公「お富さん。わたしは少しお前さんに、訊きたいことがあるんですがね」
お富「何をさッ」
新公「何をってこともないんですがね。まぁ、肌身を任せると言えば、女の一生じゃ
  大変なことだ。それをお富さん、お前さんは、そのミケの命と掛け替えにしよう
  と……、こいつはどうもお前さんにしちゃ、乱暴すぎるんじゃありませんかね?」
お富「{ミケを撫でながら}あたしがかい?」
新公「そんなにそのミケが可愛いんですかい?」
お富「そりゃ、ミケも可愛いしね……」
新公「それとも、お前さんは近所でも評判の主人思いだ。ミケが死んだとなったひに
  ゃ、おかみさんに申し訣がない、という心配でもあったんですかい?」
お富「ああ、ミケも可愛いし、おかみさんも大事にゃ違いないよ……。けれども……、
  ただ……、わたしはね……{遠くを見るような目をする}、なんと言えばいいん
  だらう。ただ、あのときは、ああしないと、なんだか、すまないような気がした
  のさ」


  ミケ「そう言うと、お富さんは黙りこくったまま、身動き一つしませんでした。
    あたしはお富さんに抱かれたまま首を回して見ると、いつの間にか、新公は
    古浴衣の膝を抱いて、ぼんやりと坐ったまま動きませんでした。
     夕暮れの色はまばらな雨の音の中に、だんだんとここへも迫ってきました。
     引き窓の綱、流し元の水瓶、そんな物も一つずつ見えなくなってきました。
     と、上野の鐘が、ゴ―――ン……。一つずつ雨雲にこもりながら、重苦し
    い音を拡げ始めました。
     新公はその音に驚いたように、ひっそりした辺りを見回すと、それから手
    さぐりで流し元ぃ下りて、柄杓になみなみと水を酌みました」


新公「村上新三郎源繁光(みなもとのしげみつ)。今日だけは一本やられた……」


ミケ「そう呟くと、旨そうに黄昏(たそがれ)の水を飲みました」


お富「じゃぁ……、これで……」


  ミケ「お富さんは声にならないような小さな挨拶をして、外へ出ました。
     幸い、雨はやんだようです。ですから、お富さんはさんざっぱら新公を殴
    った、あの傘を忘れたことも気が付かない様子です。
     歩きながら、歩きながら、袂に包まっているあたしをときどき優しく『よ
    かったね』とでも言うように、ポンポンと叩くのでした。
     あたしは上野の鐘の残りを聞きながら、無性に涙がこみ上げてきて仕方が
    なかったんです。
     そのうちに、あたしのこの猫の額を、ポツッと濡らすものがある。おや、
    雨かな? と思って見上げると、……、お富さんも……、泣いていました…
    …」
            +++++++++++++++++++++++++++++


  ミケ「十二年前のお話でした。
     あれから二年たった明治三年におかみさんが亡くなりました。あたしはし
    ばらくは気が抜けたようにボ―――ッとなってしまいました。
     お富さんは、その翌年の明治四年に、古河屋政兵衛の甥に当る、今の夫と
    所帯を持ちました。そのとき、夫とお富さんに「ミケ、くるかい?」と言わ
    れ、おかみさんを亡くしてからずぅっと寂しさの真っただ中にいたあたしは、
    今度ばかりは素直に付いて行ったんです。
     夫はその頃は横浜に、今はこの上野広小路に、小さい時計屋の店を出した
    んです。そうです、この店です。
     その頃には、新公に教わった招き猫の仕種はお手のもんで、前に人が立つ
    と盛んにやったもんですよ。豪徳寺にて江州(ごうしゅう)彦根の城主井伊
    掃部頭(かもんのかみ)直孝を招いた猫がいたといいますが、この広小路に
    も招き猫がいたんだって。とくに子供衆に持て囃されましてね。やぁ、人気
    の的ですよ。
     他にもいろいろやって、役に立っているんです。猫ですから、もちろん鼠
    は捕ってますし、自分の顔を洗って、明日の雨を知らせてます。それに店が
    忙しそうなとき、手を貸そうとこう差し伸べるんですが、本当にしてくれな
    いんです。
     ですから、いつも考えているんです、なにか働いてお役に立ちたいと……。


     あれから、明治十二年に入った三月二十六日。つい、十日前のことです。
     その日は、一家でお出かけになりました。
     店を出てきました。
     五つになる次男を抱いているのが、夫です。袂に長男を縋(すが)らせて
    ますでしょう。子煩悩なんですよ。ごらんなさい。目まぐるしい往来の人通
    りをよけながら、ちょいちょい心配そうに後ろの女房のお富さんを振り返っ
    てますでしょう。もちろん、女房思いですよ。
     その度に、長女の手を引いたお富さんは晴れやかな微笑を見せてますよ。
    夫に相当、惚れてますね。


     人通りのすごいこと。ほとんど、押し返さないばかりの人、人、人です。
    その日は、竹の台になにやら催し物の開会式があったようです。おまけに
    桜も黒門の辺りは、もう大抵開いていますから。
     ごらんなさい。上野の方からは、開会式の帰りらしい馬車や人力車の行列
    が、しっきりなしに流れて来ました。何台も、何台も、流れて……。
    ああ、また、二頭立ての馬車がきました。
     あっ……? 中にゆうゆうと坐っているのは、どっかで見たことある……、
    新公……? 駝鳥(だちょう)の羽根の前立だの、いかめしい金モールの飾
    緒(かざりお)だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋ま
    っている塊(かたまり)みたいに見えますが、しかし、新公だ…。半分は白
    くなっている髯の間にこちらを見ている赤ら顔は、十二年前の、あの乞食の
    新公に違いないですよ。
     だけど、乞食をよくやめられたなぁ……。そうか、ただの乞食じゃなかっ
    たんだ……。乞食になって働いていたんだ……、世の中のために……。で、
    今はこうして、お偉様……、なんと言ってたっけな……、村上…、新三郎…、
    源繁光……、そうだ、村上新三郎源繁光だ。
     あたしだって、そうさ。ただの野良じゃなかったんだから。野良になって
    苦労をしてたんだ……、世の中のために……、で、今じゃこうして、お猫様
    ……。未だに、ミケ……。だらしがないな、こっちは……。「新公、新公」
    なんて言えなくなっちまったよ。でも、今さら『村上新三郎源繁光様』なん
    て言いにくいしなぁ……。


     ああッ、お富さんも気が付いた様子です。思わず足をゆるめたようですが、
    不思議なことに驚いていないようです。
     お富さんは『やはり、新公はただの乞食ではなかったんだ』てな顔をして
    ます。あのとき、お富さんにはわかっていたんですよ。新公の顔のせいか、
    言葉のせいか、それとも持っていた短銃のせいか。とにかく、わかってはい
    たんですよ、『ただの乞食ではない』って。ですから、眉も動かさずに、じ
    っと新公の顔を眺めているんですよ。


     おお、新公もお富さんに気がついたか、顔を見守っていました。
     二人の眼と眼が合っていたんです。


     十二年前の雨の日の記憶が、このあたしの心にも切ないほどはっきりと浮
    んできました。
     お富さんはあの日、あたしを救うために新公に体を任そうとした。本心は
    なにか?『ああしないと、すまないような気がしたのさ』とお富さんは言っ
    ていたが……、自分でもよくわからなかったんでしょう。
     それに、新公はお富さんが投げ出した体には、指さへ触れることもしなか
    った。その本心は? それもお富さんにはわからなかったでしょう。
     しかし、この二つはわからなかったにも関らず、お富さんには当然すぎる
    ほど当然だったんでしょう。お富さんは馬車とすれ違いながら、なにか心が
    のんびりとしたような顔をしているじゃありませんか。


     あッ、夫が人ごみの間から、またお富さんを振り返りました。
     お富さんはやはりその顔を見ると、なにごともないように頬笑んで見せて
    ますよ。
     活き活きと、嬉しさうに……。


     お富さんと新公は、こうして再び会ったのです。
     羨ましい限りです。だって、あたしは新公を見ましたよ。しかし、新公は
    あたしには気が付かずに行っちまったんですから、約束はまだ果たしてない
    んですよ。
    『いい世の中になって、お互いに生きていたら、また会おう』って約束をし
    たんですから……


     日に日に、会いたさが募りました。毎日毎日、ケースに入っては、眼をつ
    ぶって昔を思い出しては自分を慰めて……、終いには本当に寝てしまうんで
    すがね。
     それから十日ほど経った明治十二年四月の八日。
     寝ていると、ガラスをトントンと叩く音に眼を覚まして、ひょいと見ると、
    新公です。いや、村上新三郎源繁光様です。ガラスの向こうに立っているの
    です。
     あたしは慌てて飛び起きると、飛びつくようにガラスに両手をかけました。
     と、新公も、いや、村上……、新公でいいや。新公がそのあたしの手のと
    ころをトントンッて。『俺だよ、新公だよ、わかるたか?』と言っているの
    がよくわかるんです。あたしは嬉しくって、嬉しくって。ガラスに手を付い
    て、足をバタバタやって、まさにケースの中で狂喜乱舞です。
     向こうでもトントンやってますから、思い出しました。あの日、手を握り
    っこして『また会おうな』って、ゲンマン、ゲンマンしました。それを今こ
    うして……。


     あれから、新公は人を使って、お富さんのことを調べたんでしょう。所帯
    を持ったこと、夫のこと、店のこと、あたしのこともわかったのです、たぶ
    ん……。
     今日、新公はお富さんに会いにきたわけではないのでしょう。もう会わな
    いつもりでしょう。仲のいい夫婦に水を差すような新公ではないはずです。
    店の中を気にしながらトントンやってんのは、あたしに会いにきたんです。
     約束を果たしに……。


     こうして二人が約束を果たしていると、店の者がなにかの用で外へ出てき
    たもんで、新公はさりげなく、立ち去りました。
     あたしは急に寂しくなりました。このまま、もう二度と会えなくなるのか、
    また、会えるのか……。もう夢中になって、去って行く新公の後ろ姿にこう
    手を振りました。
     すると、見ていた子供が二人、大きな声を出して言いました」


子供一「変な招き猫。手を横に振っているよ」
子供二「ケースのガラスを拭いてんだよ、きっと」
2003・12・25 UP








 創作・文学落語 1

丁 半 指 南(ちょうはんしなん)


    追 悼

 おい、三木助。
 お前さんは、平成13年1月3日、自らの手であの世に旅立っちまっ
たな。
 なんてぇことをしたんだよォ……、この…、バカヤロウー!……。
 お前さんは、親子二代の噺家のいい手本にならなきゃァいけねぇ男だ
ったんだぞ。
 それを、なんだッ。自分に負けやがってッ。
 ……、今さら、この俺がそんなことを言ったって、お前さんが戻って
来るわきゃァねぇが……、言いたくもなるぜ。
 お前さんから貰った安鶴氏の著作”三木助歳時記”が思い出の一つと
なっちまったよ。俺がそれを基に[丁半指南]という創作落語にしたの
を覚えてるかい。
 それをこのHP「だくだく」に載せるから。
 この[丁半指南]はインターネットで地球上を飛び回ってんだ。あの
世まで行ってるかもしれねぇから、読んでみておくれ。
 なにか思い出すことがあるかもしれねぇぞ。
 じゃァな。

 
三遊亭 圓窓
安藤鶴夫 原作『三木助歳時記』より
脚色 六代目 三遊亭 圓窓
口演 六代目 三遊亭 圓窓


   時
一九二四(大正一二)年頃
  場所
東京の佃島
登場人物
日向屋の若旦那 時次郎(二〇歳)時
遊び人 虎次(三五歳)虎
客送り(二五歳)送
見張り(三〇歳)見
木戸番(三〇歳)木
梯子番(三五歳)梯
中盆(四〇歳)盆
中番(二五歳)番


 三代目の桂三木助は、今の三木助さん(二〇〇〇・一・三 没)の実父です。
 この師匠は若い頃、本物の博打うちのような生活を送っていたそうで。
 後年、噺家として安定したある日、四代目の小さんという、その当時の協会
の会長をしていた人が博打の噺を演って、高座から下りてきたとき、その会長
に向かって一言いったそうだ。
「師匠の壺を振る手付きは違ってます。こうやるのが本当です」
 と、模範を示した。
 これには小さんも、
「なるほど。見事なもんだな」
 と、たいそう感心をした。
 が、最後に一言いったそうです。
「だけどな。いくら壺振りがうまくたって、それは噺家の自慢にはならねぇ」


 あたしも学生の頃、池袋演芸場の客席から三代目の三木助師匠の[狸の賽]と
いう噺を聞いたことがあります。
 その中で、壺を振る手付きのきれいなこと。
 踊りの師匠もやってた人ですから、また、一段といいんです。
 うっとりと、見とれたことを覚えてます。


 あたしは、「博打はやったことない」とは言いませんが、うまくはないので
深入りしたことがありません。
 最近は、家庭麻雀で女房から勝って、喜んでいるほうで。
 女房も女房で、悔しそうに「もってけ!」なんつって、金を出しますよ。
 あたしも「よこせ!」なんて、ふんだくりますね。
 しかし、考えてみると、その金は元々あたしが仕事で稼いできた金なんで。
 そんなに、喜ぶほどのことはないんですが、博打って面白いもんで。

 
   

時次郎「今晩は。虎さん。いますか…?」
虎次「おや…、日向屋(ひゅうがや)の時次郎さんじゃありませんか」
時「親父に言われてやってきたんです。『虎さんに商いの秘訣を教えてもらえ』って」
虎「ああ、それね。先日、お父っつぁんに頼まれて、困ってんですよ。
  ほんとに、お父っつぁんが若旦那にも『商ぇの秘訣』って、おっしゃったんです
 か? 若旦那のお父っつぁんも人が悪いなァ。
  いやね。はなァお断わりしたんです。『あっしァ博打しか知らねぇ男です』って。
 そしたら、『なに言ってんだい、虎さん。商いは博打じゃないか。倅(せがれ)に
 博打を教えてやっておくれよ』って。驚きましたよ、こっちは。
 『それでよきゃァお引き受けいたしやす』って、冗談に言っておいたんですが、ほ
 んとに来るとは思わなかったね…。ま、お上がんなはい」
時「はい。よろしく、お願いします」
虎「で、若旦那ね。断わっておきますが、若旦那にお教えできることは博打しかあり
 ませんでね」
時「親父は、その博打の奥に商いの秘訣がひそんでいる、と睨んでいるんでしょう」
虎「あっしゃァ、別に、親分もいなけりゃ、子分もいねぇ、けちな一匹狼の遊び人で
 す。それでよかったら、お話しますよ」
時「あたしも正直に言わしていただいて、いいでしょうか」
虎「なんです? おっしゃい」
時「あたし…、博打は嫌いないんです。子供の頃から、ジャンケンも勝ったことが一
 度もないんです。
  それに…、本来、お金は働いて得るものです。それを…、遊びながら毟り取るな
 んて…、人間のすることではありませんッ」
虎「どうも、すいません…」
時「あたしには、とてもできませんッ」
虎「でも、あっしゃァ、若旦那のその言葉ァ信じませんよ。なぜって、噂によると、
 若旦那は以前、源兵衛と多助に連れられて、吉原ィ行って廓遊びを教わったようで
 すね」
時「あれも、あたしから頼んだわけじゃありません。親父があたしを騙して、二人に
 頼んでしまったんです」
虎「若旦那は、先方ィ着いて店の二階ィ揚がっても、さんざ嫌がったそうですね。
  夜中に、花魁がそばィ寄ってきたら、あぁたは『ギャーッ!』って、男の悲鳴を
 あげたってんでしょうッ」
時「あら。そんなことまで知ってんですか?」
虎「知ってますよ。それがなんです。今じゃ、一人でちょいちょい通ってるってぇじ
 ゃありませんか」
時「えぇ…。こないだの初午に、あたしのほうから嫌がる人を三人、無理矢理に誘っ
 て行ったんです。やはり、最後には喜ばれました、はい…」
虎「いいね、『最後には喜ばれました』ってぇなァ」
時「あたしも子供じゃないんですから、なんでも嫌がってばかりもいられません」
虎「そりゃ、そうですとも。なにごとも勉強です」
時「はァ…。ですから、ここで、虎さんに博打のいろはを、ちょいと教えていただく
 だけでいいんです。深入りはしません。
  吉原という、ああいう所は、この世に男と女がいれば、どうしても避けて通れな
 い、人間の本能が集まるんですから…。つまり、本能には逆らえないのです。
  そこィいくと、博打は違います。男とか、女とかいう問題じゃありません。どん
 な能書きを言っても、お金を汚く扱うだけの遊びです。
  ですから、虎さんも一日も早く、足を洗ったほうがいいんじゃないですかッ」
虎「弱ったな、これは。あっしに小言をいいに来たんですか?」
時「そういうつもりじゃありませんが…、つい…」
虎「おいやでしたら、いいんですよ。博打は無理にいやいや習うもんじゃありません
 から」
時「虎さんや親父の顔を潰すわけにもいきませんから、ほんのいろはを教えてくださ
 い」
虎「そうですか…? じゃァ…、なにから、始めますか…。博打にもいろいろありま
 すが、賽(せぇ)から、いきましょうか」
時「なんです、せぇって?」
虎「賽(さい)です」
時「まだ、一人者ですから、妻はいません」
虎「その妻じゃありません。子供衆が双六で使ってます、あの賽ですよ」
時「ああ、サイコロですか。知ってますよ。あたしだって双六ぐらいやったことがあ
 りますから。これから、やりますか?」
虎「止しましょう、今さら、双六は。あっしの賽はこれです」
時「あたしの覚えのあるサイコロは、一が赤くなってましたが」
虎「博打で使う賽は一から六まで同じ黒です。上と下の目を足すと、七になるのはご
 存知でしょう。そこんとこは、双六と同じですかね」
時「知りません。そうなんですか。{賽を手にして}一…、の裏が{賽の高さをその
 ままにして、無理に下から覗いて}六で…」
虎「変な見方ですね。首の骨を折りますよ。こうやんなさい。賽を返せばいいんです
 から」
時「そうか…。やァ、虎さんは頭がいいね」
虎「妙な褒め方しなさんな」
時「一、六、で七…。二の裏が五で、七…。三の裏が四で、七…。みんな七だ。面白
 いですね」
虎「賽を一つで遊ぶのが、チョボイチ。二つが丁半。三つが狐」
時「いろいろあるんですね…。忘れないように、帳面に書いておきます」
虎「およしなさいよ、そんなことを書くのは。人に見られたら、みっともねぇやな」
時「いいじゃないですか。こういう勉強方法もあるんですよ。あたしは、花魁に教わ
 ったいろんな形を、ちゃんとこの帳面に絵で描いて保存あるんですから。嘘だと思
 うんなら、見せましょう。ね、この下んなってんのが、あたしです」
虎「見せなくて、ようがすよ。じゃ、書きたいのなら、書きなさい。
  とりあえず、丁半からいきましょうか。二つの賽を振ると、それぞれ目が出ます
 ね。その目を足して、割り切れる、つまり偶数てぇやつが、丁。割り切れねぇ、奇
 数が半。丁、半、どっちが出るか、当てっこするんです。
  書きましたか?」
時「はい…」
虎「じゃ、先ィいきますよ。
  数の言い方がちょいと違います。一をピンと言います。三一の丁とか、六一の半
 とか言います。五をグともいいます。五二(グニ)の半なんてぇましてね。
  同じ目が出ると、ゾロ目といいましてね。ピンゾロとか、二ゾロとかいいます」
時「ゾロですね…、はい。そのサイコロは双六みたいに転がすんですか?」
虎「いい質問ですね。そう訊かれると、張り合いがあります。
  転がすんじゃねぇんです。この中に入れて振るんです」
時「それは…?」
虎「壺といいます」
時「高いんでしょうね」
虎「さァ、いくらしますかね。買ったことはありませんが…」
時「高いはずですよ。坪(壺)いくら、というくらいで…」
虎「面白いことを言いますね。ざるで出来てましてね。つぼざる、とも言います。
  え? 『ざるという字はどう書くんですか?』。
  あのね、質問は一つだけにしてくだはいな。褒めると、続けてくるから、困るよ。
 ざるの字ィ知らなくたって、博打はうてるんですよ。
 『どうしても、漢字を知りたい…?』。ざる…、ね…。竹冠に、編む、と書くんじ
 ゃありませんかね」
時「そう、思い出した。それですッ」
虎「嘘だよ。若旦那もいい加減だね、まったく。
  若旦那。もう、いちいち書かねぇでいいでしょう。書いてたら、先ィ進まねぇか
 ら」
時「わかりました。じゃ、書くのはやめます。頭の中に叩き込みますから」
虎「そうしてくだはい。じゃ、先ィいきますよ。
  この、ざるのまんまだと、編み目から賽の目が見えることがありますんで、ざる
 の中ァ、紙を張ったり、布を張ったりしてます」
時「面白そうだね。で、どうやって使うんだい? やって見せておくれよ」
虎「じゃ、ようがすか。あっしが胴をとりますよ」
時「なんだい、胴とは…?」
虎「壺を振る側を胴といいます。本来、賽は塩でもんで清めるそうです」
時「胡瓜(きゅうり)だね、まるで。博打をうっのは、たいがい究理切って勘当され
 た人間ばかりだからでしょうか」
虎「妙な洒落を言いなさんな。で、勝負に入る前に、何度か振って客に見せます。こ
 れを賽改めといいます」
時「なぜ、そんなことするの?」
虎「この賽にはイカサマはありませんよってぇところを見せるんです。
 {賽を振って見せる}どうです。目はよく変わるでしょう。インチキのねぇ賽とい
 うことです。じゃ、この辺で、どうです。さ、どうします」
時「どうするって?」
虎「丁か半か、当ててごらんなはい」
時「う…、そう言われても困るな…。難しいな…。じゃ…、家ィ帰って、親父と相談
 して…」
虎「そんなこと、相談しなさんな」
時「虎さんは、どっちが出ると思う?」
虎「若旦那が決めるんですよ」
時「じゃ…、半…」
虎「あっしは丁ッ」
時「ちょっと待って」
虎「どうしました?」
時「『あっしは丁』というと、丁が出そうじゃないか…。そりゃ、ずるいよ」
虎「そういうわけじゃありませんよ。若旦那が『半』と言ったから、あっしは『丁』

 と言っただけですよ。じゃ、若旦那、『丁』といきますか?」
時「うーん…、じゃ…、あたしは…、丁…」
虎「じゃ、あっしは、半ですよ」
時「なんか、半が出そうだ」
虎「また、始まった。はっきりしなさい、はっきり。どっちにします?」
時「じゃ、あたしは日向屋の一人息子。いわば、長男ですから、丁」
虎「面白いね。長男で、丁か。じゃ、あっしは三男坊ですから、半ッ。勝負ッ。{壷
 をあける}どうです、半ですよ」
時「ああ……、四と五で…、あれ? 七にならないね」
虎「当たり前ですよ」
時「だって、サイコロは足すと七になるって」
虎「それは一つの賽の上下の話で。二つの賽の目はいろんな数は出ますよ」
時「そうか…、四と五で、九…。割り切れないから…、半…。駄目だよ、虎さん。自
 分で振って、自分の目を出しちゃいけないよ」
虎「でも、若旦那が先ィに決めたんですよ」
時「ああ、そうか。でも、あたしが『丁』と言ったのをサイコロが聞いて、クルッと
 転がったんじゃないの」
虎「疑り深ぇな、若旦那は…。そんなことァありませんよ。そんな賽があったら、欲
 しいね。金儲けができますよ。じゃ、もう、一遍やりますか? {壺を伏せる}は
 い、どうぞ」
時「…、じゃ…、半…」
虎「あっしは、丁。勝負。{壺をあける}二六の丁ッ」
時「なんだい。さっき、半だったから、半にしたら、今度、丁だ…。どうして、こう
 も、あたしに逆らうんだろうね、このサイコロは。あたしに壺を振らしておくれよ」
虎「どうぞ」
時「こう持てばいいんだろう」
虎「へぇ」
時「{ぎごちない手付きで壺を伏せる}さ、どっちだ」
虎「若旦那。その伏せ方ァ、ちょっといけませんね」
時「サイコロが壺から出てるかい?」
虎「そうじゃねぇんです。伏せた壺から手を離すとき、そのまま離しましたね。
  それがいけねぇんです。賽が壺の真ん中ィくるように、壺をずってください。こ
 れを足をする、といいます。
  そうしねぇと、賽が壺にひっついてましてね。壺をあけるとき、賽を引っかけて
 転がしちまって、目を変えちまうことがあって、揉め事のもとになりますので。し
 っかりと、足をすってください」
時「難しいもんだね。じゃ、{足をすってみせる}こうかい…」
虎「そうです。じゃ…、あっしァ…、半、といきやしょう」
時「あたしは、丁だね。どうか、丁が出ますように…。勝負。{壺をあける}ムーン
 …、こりゃ、すごいッ。四のゾロゾロ!」
虎「ゾロゾロってぇのは初めて聞きましたね。四ゾロの丁ってんですよ」
時「それそれ。そのゾロゾロ。丁でしょう? ねッ。出た。勝った。勝ったね!」
虎「へえ。若旦那の勝ちです」
時「勝っと、どうなんの?」
虎「賭けた分だけ、金が入ってきます」
時「じゃ、おくれよ」
虎「賭けてなかったでしょう」
時「ああ、そうか…。失敗した…」
虎「じゃ、張りますか?」
時「いいのかい?」
虎「ようがすよ」
時「だって…、痛いよ。お前さんの顔を張るんだろう」
虎「そうじゃありませんよ。丁か半か、決めて、金を賭けんのを張ると言うんです」
時「ああ、そう…。で、虎さんはあたしみたいな素人に張らせて、騙して、儲けてん
 だ」
虎「そういう訳じゃありませんよ」
時「でも、博打でおまんまを食ってんでしょう?」
虎「ま…、そんなところです」
時「大したもんだね。偉いね」
虎「褒められたのは、初めてですね」
時「どういう所でやってんだい? あまり、ビラやチラシで見たことないけど…」
虎「博打をする所を博打場とか、賭場(とば)とか、鉄火場とかいってますが。
  ま、この稼業は、昔から、お上(かみ)が禁じてますんで。わからねぇようにや
 ってますよ」
時「どんな所で? 虎さんは知ってんでしょう」
虎「そりゃ、まあ」
時「連れてっておくれよ」
虎「そいつは…、いくらなんでも……」
時「いいじゃないか。親父に頼まれたんだろう。『倅(せがれ)に博打を教えてやっ
虎「でも、まさか、博打場までは…」
時「『倅を博打場ィ連れてっては駄目だ』って、親父は言ったかいッ」
虎「そうは言いませんでしたが…」
時「じゃ、いいじゃないか。親父は虎さんを信じて『倅を仕込んでおくれ』と言った
 んだから。
  あたしだって、馬鹿じゃないよ。博打に狂って、親父の身代(しんだい)を潰そ
 うというわけじゃないんだから。博打のいろはを知りたいんだ」
虎「わかりました。その代わり、一遍切りですよ。で、いくらか、金ェお持ちですか」
時「実は…、家を出るとき、親父からお金を渡されてんです。ですから、親父もその
 つもりだったんでしょうね、きっと」
虎「変なお父っつぁんだね、まったく…。ま、いいや。じゃ、いろはを習いに行きま
 しょう…。
 {神棚に柏手を打ち、載せてあるお守りを懐に入れる}
  さ、出やしょう」
時「それ、大事なお守り…?」
虎「へ…、ま…、そんなもんです」
時「戸締まりは、しないの…?」
虎「独り者の気散じ(きさんじ)。それに、盗られて困るような物なんざァありませ
 んやな。さ、出かけましょう」


時「ねえ、どこィ行くんだい、虎さん、どんどん行くが」
虎「佃(つくだ)ィ向かってます…」
時「佃島(つくだじま)…? あたし、夜の佃は久しぶりだ…。佃のどこです?」
  ですから、安心しなせぇ」
時「わざわざ、佃島まで…?」
虎「これから、渡しに乗りますが、そもそも、家康公が江戸ィ幕府を開く少し前、摂
 津の国の西成郡(にしなりぐん)佃村の住吉神社に詣でました。
  そのとき、佃村の漁師が家康の食事を心を込めて賄ってくれたんで、喜んだ家康
 が住吉の神官と漁師、三十三人に江戸への移住を勧めたそうです。
  で、連れてきて、あの島の領地を与えた。古里の村の名をとって、佃島だ」
時「講釈が長いね。それェ覚えないと、渡しに乗せてくれないのかい?」
虎「そんなことありませんがね」


    二人は、築地明石町(つきじあかしちょう)から、渡しィ乗って、佃島へ。
虎「若旦那。博打をやりたい場合、どうします?」
時「博打場ィ行きますよ。だから、今、こうして、歩いてんだ」
虎「ところが、知らねぇ土地で、どこで博打が開かれてるか、わからねぇとき、どう
 します?」
時「…、誰かに訊くでしょうね」
虎「誰に?」
時「こういうことは、誰でもというわけにはいかないでしょう。それらしき人に訊き
 ますよ」
虎「それらしき人って、どこにいます?」
時「…、それらしき所にいるでしょう、きっと」
虎「そうなんです。ですから、まず、溜まりィ行かなくちゃいけません」
時「溜まり…? 水溜まり…?」
虎「そうじゃありません。博打の常連なら、ちょくに博打場ィ行ってもよござんすが、
 はじめての客はそうはいきません。
  そこィ行って、案内をしてもらうんです。そこを溜まりといいます。これがお定
 まりなんです。
 案内をしてくれる者を客送りといいます」
時「どこなの?」
虎「本来、溜まりは自分で捜すんです。そこィ入ると、客送りが見てましてね。博打
 をしたがってる客かどうか、すぐ、わかるんですね。
 といって、そういう者を誰でも連れて行くわけじゃありません。場を壊すような、
 場に合わねぇような者は案内をしねぇんです。
 これが客送りの腕です」
時「品定めされるわけだ」
虎「そうです。あっし一人でしたら、博打場は知ってますから、さっさとそっちィ行
 きますが、今日は若旦那のための博打のいろはですから。溜まりから、始めやしょ
 う」
時「いったい、どこなんです、その溜まりは?」
虎「どこだと、思います?」
時「わかりませんよ」
  外の壁の青ペンキはところどころ剥げ落ちて、薄汚れた白い暖簾が疲れ切ったよ
 うに揺れてますね。あのミルクホールです」
時「あれが…? なんだか、不気味だね…」


    中ィ入ると、それぞれ形の違ったテーブルが三つ。
    その上に大きな蓋のかぶさったガラスの器が置いてあって、その中にはシベ
   リア、バナナという菓子が並んでいる。
    店の奥に、店員なんでしょう、桃割れに結った丸顔の女がつまらなそうに立
   っている。
    その前のテーブルには、くわえ煙草の二十四、五歳。素足に雪駄(せった)
   はいて、膝組(ひざぐみ)をして貧乏ゆすりしている若い男が、新聞を立てる
   ように大きく広げて読んでいる。
    その男は虎次の顔を見ると、あわてて、居住(いず)まいを正(ただ)して、
   頭を下げた。
    こういう所の女は、なぜか、だるそうな声を出すもんで……。
女「なんにしましょうか…」
虎「ちょいと、待っつくれ。
 {隣りに}若旦那、なにがいいですか?」
時「…、なにか…、注文するのかい」
虎「ええ。壁にいろいろ書ぇてありますから、見て、決めてくだはいな」
時「…、じゃ、ミルクとトースト…」
虎「ほー…、 本寸法(ほんすんぽう)ですね」
時「ミルクとトーストに寸法があるのかい…? 知らなかったな…」
虎「{女に}ねえさん。ミルクとトースト」
女「はぁい…」
虎「{低い声で}若旦那。なにをしてんです?」
時「ミルクとトーストの寸法を書いておこうと思って、帳面を…」
虎「およしなさい、帳面を出すのはッ」
時「駄目かい…。じゃ、いいよ…」
虎「若旦那。さっき、あっしに頭を下げたのが、客送りだ。あれで、なかなか、鯔背
 (いなせ)っこいでしょう。この島の三下(さんした)ですよ」
時「島の三下ってぇと…?」
虎「やくざには、一家(いっか)の総長がいる。これは本部屋を持った総元締めだ。
 その下に、下部屋(したべや)を持つ親分がいる。それぞれ島ァ持っているので、
 貸し元(かしもと)」
時「島?」
虎「縄張りのことを島という。で、貸し元の代理として、賭場ィ出張って仕切るのを
 代貸し(だいがし)という。胴をとる元締めで、胴元(どうもと)ともいいます」
時「へぇ…」
虎「賭場で間違ぇのあったとき、代貸しは、どんなことがあっても、貸し元の名を出
 しちゃならねぇんで。命かけて、すべてを自分で負う度量がなくちゃ、とてもでき
 ねぇのが代貸し」
時「大変なんだね、そりゃ…」
虎「その下で働いてんのが、若ぇ者、三下。この三下にいいのがいねぇと、賭場は盛
 りません。その一人がここで、いい客を賭場ィ案内する客送りさ。
 三下ン中でも、しっかりした、いい顔の者がする」
時「それが、あの人…?」
虎「そう」
時「どうなの、いい三下かい?」
虎「うん、なかなかいいね」
時「一目見て、わかるの?」
虎「一目見てわからなくちゃァ、こっちも博打で飯ァ食えねぇ。向こうも一目でこっ
 ちを見定めてますよ」
時「恐いね…」
虎「{煙管を手にして}若旦那、火ィ持ってる?」
時「あたしは煙草は吸わないから…」
 {客送りがそばィきて、マッチを擦って差し出す}
客送り「へ、どうぞ」
虎「おう…、すまねぇ。{若旦那を紹介する}こちらァ、あっしの大事な人だ。いろ
 はから見てぇってぇから、このとっかかりから連れてきた。寸法通り案内してくん
 ねぇ」
送「承知しやした。
 {若旦那に}では、旦那。どうぞ」


    客送りが先ィ表ェ出た。
    二人は勘定を払うと、そのあとを…。
時「虎さん。いよいよ、博打場だねッ」
虎「大きな声ですね。子供が縁日ィ行くわけじゃねぇですから、そう、はしゃいじゃ
 いけませんよ」
時「でも、興奮するよ、こうなると。あの人はあたしのことを、なんだと思ってんだ
 ろうね」
虎「様子のいい、どっかの大家(たいけ)の若旦那だと、もう見てますよ」
時「そうかい…?」
虎「この稼業は客を大事にしますからね。一目見て、どういう客筋かを、だいたい掴
 みます。その商売の上の位で呼びますからね。
  商人だなと思ったら、旦那。会社勤めと睨んだら、社長。大工(でぇく)らしい
 と思ったら、棟梁(とうりょう)。芸人らしいときは、師匠」
時「で、あたしのことを、『旦那』と言ったんだ。あたしは一瞬、もう、親父は死ん
 だのかな、と思ったよ」
虎「横浜から来る旦那を『横旦(よこだん)』。鉄屑屋の旦那を『鉄旦(てつだん)』
 って、呼んでますよ」
時「客の商売が、わからなかったら?」
虎「しょうがねぇ、『先生』と呼びます。先生と呼んでおけば間違ぇねぇや。違って
 も、怒る人はいなかろう」
時「返って、喜びますよ。
 虎さん…? 客送りの人、どんどん先ィ行くよ。愛想がないね、商売なのに…」
虎「客送りの四、五間あとから付いて行くのが、本寸法でさァ」
時「寸法が好きだね、虎さんは…。でも、なぜなの?」
虎「賭場ィ行くのを他の人に知られたくねぇでしょう。だから、離れて…」
時「なるほど…、〔三尺下がって、師の影を踏まず〕というが、それどこじゃない。
 四、五間も下がるんだから、博打はたいしたもんだ。いろいろ気を使ってんだね。
  虎さん。影といえば、あの客送りの影、さっきより薄くなってきたよ。気のせい
 かな。あの人、長いことないんじゃないの?」
虎「月に雲がかかってきたんですよ。うしろをみなせぇ。俺たちの影だって薄くなっ
 てまさァ」
時「なるほど…。月に群雲(むらくも)、花に嵐ってやつだ」
虎「粋なことを知ってますね。つまり、運(月)に見放されそうだから、博打はおや
 めなさいてぇことかな、これは」
時「まだ、やってないのに、月も星もありませんよ、虎さん」
虎「そりゃ、そうだ」


    人通りのほとんどなかったミルクホールの通りから、町中ィやってきた。右
   手に婆さんが一人、店番をしている煙草屋がある。
    その前を通り過ぎて、少し行くと、客送りは立ち止まった。
    そこィ、二人が近づくと…、
送「そこの煙草屋です。手前の細い路地をお入んなすって。若ぇ者がおります」
虎「あいよ。
 {脇に}若旦那。いよいよだよ」
時「なんだか、落ち着かないな…。小便がしたくなった…。ここに柳が立っているか
 ら、ここでやるよ」
虎「一緒にやりやしょうか」
時「虎さんも、落ち着かないの?」
虎「だいぶ、馴れましたがね。小便は癖になってます。
 博打場ィ入るときは誰でもそうらしいんです。
 不思議なもんで、小便をする場所まで決まるようですね。
  木が立ってたり、開帳札が立ってたり、ポストや電信柱。犬と同じですよ。往来
 の真ん中ではしねぇもんだ。
  すると、近所の人が『臭ぇ、臭ぇ』と怒って、『なんとかしてくれ』と、交番ィ
 文句を言いに行きます。
  と、お巡りは、この近くに賭場があることを嗅ぎつける。
  だから、小便をされると、客送りはヒヤヒヤするんですよ」
時「じゃ、よそうか…?」
虎「よそうったって、もう、雫(しずく)じゃありませんか、若旦那。しめぇまで、
 安心してやんなせぇ」
時「じゃ、お言葉に甘えて、最後の一滴までやらせてもらいましょう。
  でも、やっぱり、みんなやるんだ…。ここで、こうやって…。
  この柳だって、可哀そうだよ。育ってないもの。貧弱だよ…。柳家貧弱ってぇ売
 れない噺家がいそうだね」
虎「妙な洒落ですね」
時「虎さん。この柳、花が咲いてりゃ、『臭い』ってんで、そのハナは曲がっちまう
 でしょうね」
虎「…、柳の花って、見たことありませんね」
時「そういやそうだ…。虎さん。こうやって、小便してんのを誰かが見て、これから、
 博打場ィ行く人だなってぇの、わかるかな…」
虎「小便しながら、キョロキョロしてんのは、ほとんど、博打場行きです」
時「そうか…。あっち、こっち、キョロキョロしちゃァいけないんだ」
虎「よしたほうがいいね。顔は前に向けたままで、目だけをキョロキョロさせなさい
 な」
時「虎さんの倅ぐらいなら、見ていいでしょう?」
虎「およしなさい。見て、どうすんです?」
時「見たところ、だいぶ、借金がありますね」
虎「よくわかりますね」
時「うん。雁(借り)が大きいから」
虎「およしなさい。でも、初めての博打場入りに、洒落が言えるくらいなら、いいや」
時「大物になれるかね」
虎「倅さんのほうなら、大物になれましょう」
時「お返しが早いね、虎さん」
虎「若旦那ね。今、振り返って見ちゃいけませんよ。歩き出したら、さりげなく見て
 ごらんなはい。
  あの煙草屋で買うような恰好をして、婆さんと小声で話をしてる三十がらみの男。
 あれは見張り。
  警察の手入れがいちばん恐ぇから、目立たないように見張ってんです」
時「へ…。こっちのことも、見てるかな…?」
虎「見てますよ」
時「大丈夫かな…」
虎「どう見たって、こっちは警察には見ぇねぇでしょう」
時「そうか、同じ手入れでも、股ぐらに手入れをしてるんだから、安心か…」
虎「また、始まったね」
時「小便だけに、また(股)さ」
虎「止まらないね」
時「小便は止まった」
虎「洒落も止めてくださいな」
時「これは才能だから、止まらないよ」
虎「どうでもいい才能だ、そりゃ…。
  行きましょう、若旦那。路地ィ入ってくだはい。
  向こうに痩せた男が立ってましょう。あれが、木戸番」
時「寄席みたいだね」
虎「入り口で、客改めをする役で、木戸番といいます。いちばん、つまらねぇ役です
 がね。行きますよ」
木戸番「おいでなさいまし。お入んなすって」


    中ィ入りますと、狭い土間んなってまして、そのすぐ近くに梯子段(はしご
   だん)がある。
    そこにも、三下が一人、立っている。
梯子番「おいでなさいまし。お上がんなすって。敷き(しき)ァ、突き当たりんなっ
 とります」
虎「あいよ」
時「虎さん。あの人はなんてぇの?」
虎「梯子番(はしごばん)てぇまして。ああやって、階段の上がり口で人改めをする
 んです。
  万が一、手入れがあったとき、まず、大事な客をはじめ、代貸しの親分を逃がさ
 なくちゃならねぇんで。ときによっては、警察と体ァ張ってぶつかりますんで、鉄
 砲玉ともいいます」
時「敷きってぇのは?」
虎「賭場んなってる座敷のこと。入れ物(いれもん)ともいいますが」


    ギィッ、ギィッと、音のする梯子段を上がると、突き当たりが襖(ふすま)
   になってまして。
    開けますと、四畳半、その奥が八畳になっている。
時「ワーッ。{ゴホン、ゴホンと咳込む}煙草の煙(けぶ)がすごいね、虎さん」
虎「どうしても煙草を吸いますからね。ごらんなはい。やってますよ、若旦那」
時「ワーッ、やってるね、虎さん…。境(さかい)の鴨居(かもい)に白い紙が貼っ
 てあるけど…?」
虎「あれね。あれはつなぎ、あるいは通し紙(とうしがみ)といいます。
  二つの部屋をつなげて賭場を広く使うとき、必ず、鴨居に白い紙を貼ります。
  博打うちは切れるということを嫌います。ですから、この部屋は切れてないこと
 を表わしてんです」
時「縁起をかついでんだ」
虎「命がけのことですんで、いろいろ縁起はかつぎますよ」
時「真っ白の布を敷くんですね」
虎「これを盆、あるいは、盆ゴザともいいます。
  畳を並べて、その上に白布(しろぬの)を皺のねぇように敷いて、鋲を打ちます。
  盆を作る若ぇ衆は偶数でやるのが定法。だから、鋲も偶数です。たぶん、十二は
 打ってありますね」
時「へぇ…、そうなの…」
虎「以前、浅草ィ遊びに行ったときは、奇数でやってました。そこの一家は、割れな
 い、という縁起をかついだんでしょうね」
中盆「{壺笊(つぼざる)を持った男が}いらっしゃいましッ」
虎「少し、遊ばしておくんない」
時「なんなの、虎さん。あの人…? 今、壺を伏せてる…」
虎「中盆(なかぼん)といいます。中盆は南ィ向かって北ィ座るか、東ィ向かって西
 ィ座るか、どっちかなんです」
時「どうして?」
虎「東のお天道(てんとう)さまに尻を向けるわけにはいかねぇでしょう。
  あの姿勢をごらんなはい。正座して、両方の手のひらを上にして、両膝の上に載
 せているもんなんです」
時「それは、どうして?」
虎「イカサマはしておりません、ということを示してんでしょう。
  それから、中盆は体から光物(しかりもん)を外します」
時「光物って?」
虎「時計、眼鏡(めがね)、鎖。客にとっては気が散るもんなんです」
時「あのなりがいいね。板前や魚屋の着る、ダボシャツでしょう」
虎「そうです。木綿のシャツです。少し違うのは、袖をちょいと広くしてあります。
 下は、ま、ステテコですね」
時「いい形だね」
虎「中盆は、出方(でかた)ともいいます。本出方(ほんでかた)と助出方(すけで
 かた)がありまして、ま、正と副ですね。
  真ん中で壺を振るのが、本出方。両脇で、賭けた金を合わせたり、寺銭(てらせ
 ん)をとったりするのが、助出方」
時「寺銭って…?」
虎「胴元の代貸しィ入る銭のことです。
  それからね、若旦那。そもそも、この博打はお釈迦さまが考えたそうなんです」
時「ほんと?」
虎「そうなんです。寺で説教だけしてたんでは人が集まらねぇ。
  そこで、お釈迦さまが考ぇて、博打をやらせたんです。天竺にいるサイという獣
 の角を削って拵ぇて、転がしたから、サイコロてんです」
時「ほんと?」
虎「そうですよ。寺でやったから、博打ィ開くことを開帳といいます。
  博打場で上がる銭のことを寺銭といいます。
  取られてスッテンテンになると、お釈迦んなってぇます。
時「ほんとかい?」
虎「寄席で噺家が言ってましたから、当てにゃァなりませんが…」


盆「{壺を伏せて、少し声を張り目に言う}丁半ッ、どっちもッ、どっちもッ」
時「なんだい、虎さん。『どっちも、どっちも』ってぇのは?」
虎「『丁と半、どちらでもいいですから、お賭けください』という掛け声です」


盆「{客の張り具合を見て}どっちも、はいッ。どっちも、はいッ。どっちも、はい
 ッ」
時「なんだい、虎さん。今度は『どっちも、はい』って。はいが付いてる」
虎「どっちィ張ろうか、と考えている客がいるんで、この辺でどうですか、と促して
 いるんです」


盆「{客が三人ほど揃って丁に張ったので}丁は手止(てど)まりッ」
時「なんだい、虎さん。『手止まり』って?」
虎「丁と半の張り具合を調えるために、とりあえず、もう、丁へは張ってはいけませ
 んよ、ということで『丁は手止まり』と言います」


盆「{客が半に張ってきたので}双方、手止まりッ」
時「わかった、虎さん。丁と半が丁度よく揃ったということなんだね」
虎「わかってきましたね、若旦那。そうですよ」


盆「{また声を張って}乗り引(のりし)き、ありませんかッ。乗り引きはありませ
 んかッ」
時「虎さん。今度は難しい…。のりしきって?」
虎「丁に張ったのを半へ乗り換えたり、または半から丁への乗り換えはないか、訊い
 てんですよ」
 

盆「{一段と声を張り上げて}丁半、揃いましたッ。勝負ッ!{と、壺笊を上にはね
 る}六一(ろくぴん)の半ッ」
時「半が勝ったんだね」
虎「そうです」
時「勝った半はいくら貰えるの?」
虎「賭けた金と同額の金が入ってくるんですが、寺銭として五分(ごぶ)引かれます」
時「勝つたんびに五分引かれるのかい?」
虎「そういうことです」
時「負けても寺銭の五分は取られるの?」
虎「負ければ賭けた金はそっくり取られます。ですから、寺銭は取られません」
時「じゃ、負けたほうが得みたいだね、なんだか」
虎「負けて得はしませんよ。
  あそこにあるでしょう。寺銭を入れておく袋を寺袋(てらぶくろ)。
  それに箱を寺箱(てらばこ)っていいまして、鍵のかかったやつもあるんですよ」
時「ちょいと…、やってみたいね」
虎「そうですか。でも、熱くなっちゃいけませんよ。いろはを習いにきただけなんで
 すから」
時「わかってるよ」
盆「{虎次と若旦那に}一番、どうです?」
虎「ああ。
 {脇に}若旦那。あそこの瀬戸の火鉢んところに座りましょう」
時「いいのかい」
虎「いいんですよ、遠慮しねぇで」
中番「{三下が若旦那のところへ}お茶ァ、お飲用(あが)んなすって」
時「{若旦那が堅くなって}ああどうも、恐れ入ります。突然、伺いまして。あたく
 しは日向屋善兵衛の倅、時次郎と申します」
虎「そんなに馬鹿っ丁寧に挨拶しなくても、よござんすよ、若旦那」
時「誰なんです、あの人…?」
虎「中番(なかばん)といいまして、ここで客の世話をする。使いっ走りや雑用をす
 る若ぇ者ですよ。ま、敷きが二階だから、二階番ともいいますがね」
時「寄席の楽屋の前座みたいなもんだね」
虎「そうですね。そういえば、昔、中番やってる噺家がいましたよ。歌なんとかって
 ぇのが…。扇子ゥ持ってウロウロしてましたよ」


盆「{壺を伏せて}丁半ッ、どっちもッ、どっちもッ」
時「おいでなすった。『どっちも、どっちも』って。
  ねぇ、虎さん。やっていいの?」
虎「おやんなさい。そのために来たんでしょう。あっしは後ろで見てますから」
時「虎さん」
虎「なんです?」
時「虎さん。丁と半、一遍に両方かけたら、どうなる?」
虎「負けたほうは、取られて、勝ったほうは入ってきますが、寺銭を五分引かれます」
時「それをズーッと続けても?」
虎「同じですよ。やるたんびに、五分取られるんですから、儲かりませんよ」
時「ほんとかな…? やってみようか?」
虎「およしなさい。みなさん、笑ってますよ」
時「間違って、五分付けてくれないかな、と思って」
虎「そうはいきませんよ。さ、いくら賭けます? どっちに張ります?」
時「…、じゃ…、半。五円…」
盆「どっちも、はいッ。どっちも、はいッ。どっちも、はいッ」
時「やってる、やってる。『どっちも、はい、はい』だって」
盆「丁は手止まりッ」
時「わかりましたッ」
盆「双方、手止まりッ」
時「はい、わかりましたッ」
盆「乗り引き、ありませんかッ」
時「ありませんよ」
虎「{若旦那に}いちいち、答えなくてもいいですよ、若旦那」
時「でも、学校の先生から、『なにごとも大きな声で返事をしなさい』と、よく言わ
 れましたから」
虎「でも、ここは世のため、人のための人造りをしてる場所じゃありませんから、返
 事はいりません」
時「でも、中盆さんにわからないといけませんから」
虎「いいときは、黙っていればいいんです」
時「は…、ここは変な所ですね」
虎「そうですよ。学校の先生にはおすすめできねぇ所ですから、ここは」
盆「丁半、揃いましたッ。勝負ッ!{壺をあける}五二(ぐに)の半ッ」
時「半! 出た! 勝った! 勝った!{金を勘定して}ああ…、やっぱり、五分引
 かれてる! 悔しいね。これだけは、帳面に書いておこう!」


    若旦那、そのうちに段々、熱くなってきた。
    それに、ついているというのか、面白いように金は増えていった。
    とうとう、夜も明ける頃になった。
虎「もう、切り上げましょう、若旦那。帰りましょう」
時「そうはいきませんよ」
虎「帰りましょうよッ」
時「帰れるものなら、帰ってごらんなさい。梯子段の所で縛られます」
虎「その名台詞は源兵衛と多助から聞きましたよ。若旦那は吉原の翌朝(きぬぎぬ)
 の別れで、二人にそれを言ったんでしょう。吉原で評判でしたよ」
時「それも知ってんですか…」
虎「知ってますとも。とりあえず、向こうの部屋で一休みしましょうや」
時「でも、まだまだ、勝てそうだよ。ここで、やめて、流れを変えちゃァもったいな
 いよ」
虎「生意気なこと言いなさんな。もう、いいじゃありませんか。
 {若い者に}あがらしてもらうぜ。
  若旦那。勝ったんですから、若ぇ者にいくらか、小遣いをおやんなせぇ」
時「五分取られてる上に、また、やるの? いくら?」
虎「一円ずつも、おやんなせぇ」
時「一人、一円?! そんなに?!」
虎「大きな声ですね。勝ったんでしょう、若旦那は」
時「じゃ、これで…{祝儀を切る}」
盆「ありがとうござんすッ」
番「ありがとうござんすッ」
時「{若い者に}まぁまぁ、いいよ、そんな、礼は。それより、どう。その金で、一
 勝負しない?」
虎「およしなさいよ、若旦那。さ、立ったり、立ったり。
 {他の部屋へ連れて行き}さ、この部屋ィ入って、お茶でもおあがんなさい。
 {茶を貰い、飲みながら}どうでした、若旦那。博打をうった気分は…?」
時「面白いね。世の中にこんな面白いものは他にないんじゃないかい」
虎「吉原と、どっちがようがすか?」
時「そりゃァ…、吉原もいいよ。だから、吉原ィ行って博打ができれば、申し分ない
 ね」
虎「欲張ってますね、まったく。
  まァ、勝ってりゃ、こんないい気分はありませんよ。
  負けて帰るときは寂しいもんでしてね。スッテンテンに取られますと、帰りがけ、
 中番が『また、おいでなすって』と言って、ギザを一つ、五十銭玉ァ持たしてくれ
 ます。これは、電車賃ですよ、ということで、寺袋の中から回してくれるんですが
 ね。
  こうなると、下足番に祝儀も切れねぇ。『今日は、勘弁してもらうぜ』と言い訳
 をして、表に出るときは寂しいもんでさ」
時「そういうもんなの…?」
虎「ところが、あっしは、どうも、勝って帰るってぇのは、好きじゃねぇんで」
時「どうして…?」
虎「『あの野郎、勝つとすぐに帰りゃがる』とみんなに言われてんじゃねぇかと、つ
 いつい思いましてね。
  といって、大負けをして帰るのも、てめぇの後ろ姿を思い浮かべると、惨めなも
 んです。
 ですから、ほんのちょっと負けて帰るのが、いちばんようがすね」
時「じゃ、ほんのちょっと負けるまで、やらしてよ」
虎「およしなさい。若旦那は博打のいろはでいいんでしょう?」
時「でも、虎さん。いろはとくれば、にほへと、と続けなくちゃァみっともないよ。
  それに、あたしは、今日、始めてやって、勝ったんだよ」
虎「若旦那。有頂天(うちょうてん)になっちゃいけません。
  大きな声じゃ言えませんが、向こうが勝たしてくれたんですよ…」
時「…、じゃ、向こうが…、わざと負けたのかい…?」
虎「そうです。向こうはこれからの大事な客にしてぇと思えば、この先、通わせるた
 めに、はなァ客に勝たせるんですよ。
  ですから、自分が強いから、勝ったと思ったら、とんでもねぇ間違ぇですよ」
時「じゃ、次は自分の力で勝てばいいんでしょう?」
虎「困ったね、このいろはの若旦那は…。
  じゃ、どうしても、この先、博打を続けたかったら……、
  若旦那に伺いますがね。{懐のお守りから、紙を取り出して}この紙に書ぇてあ
 ること、身に付けられますか?」
時「なんだい? それ、出かけるとき、持ったお守りだね。大事な書き付けが入って
 たのかい? なんか、書いてあるけど…」
虎「一つ、心(しん)」
時「なんだい、そりゃ?」
虎「心です。いくら負けたって、なんでもねぇ、平気だという心構えです」
時「そうは、いかないよ。負けりゃ悔しいよ。平気ではいられないよ」
虎「平気でいられる心がなくちゃァ、博打は勝てません。二つ、物(ぶつ)。金です。
 ありますか?」
時「金ですむことだったら、なんとかなるよ。まだ、親父が達者なんだから」
虎「じゃ、伺いますけど、百円負けたきと、次ぎに倍の二百円張れますか?」
時「…、二百円ぐらいなら…」
虎「その二百円も取らいたら、倍の四百円。それも取らいたら、八百円。どんなに負
 けが続いても倍、倍と張れるほどありますか?」
時「どこまで…?」
虎「ズーッとです。負けが続く限り、ズーッと、倍、倍です。その代わり、一度勝て
 ば、儲かりますよ」
時「いつ、勝てるの?」
虎「そいつはわかりません。いつ勝つか、わからねぇとこまで金が倍、倍と続くかっ
 てことです」
時「おい、そりゃ無理だよ。いくらなんでも、ズーッとは続かないよ」
虎「物もねぇんですね。三つ、技(ぎ)。技です。勝負の技が巧いか下手か」
時「巧いか下手かって、今日、始めたばかりだよ…」
虎「じゃ、下手ですね。
  四つ、根(こん)。根気、根性があるか、どうか。博打場で居眠りしたり、欠伸
 が出るようじゃ、駄目なんです」
時「あたしは飽きっぽい質(たち)でさァ…、知ってんだろう、虎さん」
虎「そうでしたね。
  じゃ、五つ、力(りき)。力。いざ、というとき、ちからがねぇとね」
 博打で負けても、力ずくでふんだくってやるぐれぇの力がねぇとね」
時「それをあたしに求めるの? そりゃ、無理だよ。色男 金と力は なかりけり、と
 いう川柳、知らないのかいッ」
虎「なるほど、無理はねぇ…。吉原で男の悲鳴をあげた人ですからね。
  六つ、論。威勢のいい啖呵(たんか)も切れなくちゃいけませんが、また、ノラ
 リ、クラリと、相手をイライラさせるぐれぇの口も利けなくちゃいけねぇんだ。ど
 うです、こいつは?」
時「口は、もたつくほうで…」
虎「だらしがねぇな。七つ、盗(とう)。盗み。できますか?」
時「そこまでは、落ちぶれたくない…」
虎「つまり、相手の目を盗んで、いろんな細工ができなくちゃいけねぇんだ」
時「不器用だから、できない…」
虎「八つ、殺(さつ)。殺し」
時「殺し…?」
虎「どうやっても相手に勝てねぇとなると、向こうを殺してでも、勝つ了見(りょう
 けん)にならなくちゃァ駄目なんです。人殺しができますか?」
時「いくらなんでも、人殺しは…」
虎「できることは、一つもありませんね」
時「へえ…」
虎「どうしても、博打をやりたかったら、修業して、こいつを身に付けなせぇ。一心
 (いっしん)ッ、二物(にぶつ)ッ、三技(さんぎ)ッ 四根(しこん)ッ。五力
 (ごりき)ッ、六論(ろくろん)ッ、七盗(しちとう)ッ、八殺し(やつごろし)
 ッ」
時「できないよ、そんなこと…」
虎「これができなかったら、博打は勝てません。およしなさい」
時「そういう虎さんは、その八つ、身に付けてんの?」
虎「…、いいや…」
時「なんだ。自分だって、駄目なんじゃないか」
虎「そうなんです」
時「なんで、こんな紙を後生大事(ごしょうだいじ)に持ってんの?」
虎「その謂(いわ)れ、聞きたいかい?」
時「なんか、あったの?」
虎「ありましたね。聞くも涙…、語るも涙…」
時「じゃ、泣こうじゃありませんか。おっしゃいよ」
虎「今を去ること、十年あと……。あっしが生まれて初めて、ぞっこん、惚れ込んだ
 女がいましてね」
時「なんだ、おのろけかい? 虎さんに似合わない…」
虎「ま、お聞きなせぇ……。
  素っ堅気(すっかたぎ)の娘で、歳はあっしより五つ下でした…。
  女も、どういう訳か、こんなあっしを好いてくれましてね。
  あっしのほうから、『一緒になりてぇ』と言ったら、『博打から足を洗っておく
 れ』ってんだ。
  あっしゃァ『うん、わかった』と約束はしたものの、餓鬼の頃から遊び覚えた博
 打でさァ…。すぐには、やまりません…。
  女には、なんど嘘をついて、博打場ィ足を運んだことか…。
 ところが、向こうはお見通しでさァ…。
 『どうしても、博打がしたいのなら、これを身に付けてから、おやんなさい。その
 代わり、身に付けられなかったら、およしなさい』と見せられたのが、この紙でさ
 ァ…。
  女は、誰かに教わってきたんでしょう。それをつっかいつっかいですが、あっし
 にこの言葉の意味を言うんですよ。いじらしくてねェ…。
  一心、二物、三技、四根。五力、六論、七盗、八殺し。
  あっしに、できることは一つもありませんでした……。
  よく、見ると、その文字は女の親父の筆跡なんです。娘になり代わって、このあ
 っしに意見をしてくれたんでしょうね……。
  あっしゃァ、人前(しとまい)で初めて泣きました……。
 『じゃ、明日、お父っつぁん、おっ母さんのところィ行って、博打をやめますと、
 ちゃんと挨拶をするから』と女に言いました。
  あっしゃァ、本心、足を洗う覚悟を決めたんです。
  ところが、その晩……、女のおふくろさんが…、ぽっくり逝(い)っちめぇまし
 て…。
  気落ちしたところィ…、お父っつぁんは人に騙されて、大きな借金を抱えてしま
 い…、とうとう、店は潰れました…。
  そんなことから、女は金をこせぇるために……、自分から身を売って…、芸者に
 なりました…。
  そんなゴタゴタがあって、博打から足を洗う決心は言いそびれてしまいましてね
 ……。
  あっしが、しっかりしていりゃァ、なんとかなったかもしれなかった。そう思っ
 たときは、もう遅かったんです……。
  金もねぇ、根性もねぇ…、こんな男はどこィ行ったって、なんの役にも立ちゃし
 ねぇ…。
  女とは、それっきり……。
  足を洗う、と決めた覚悟も、それっきり……。
  そのまま、元の博打うちでさァ…。
  でも、この紙の言葉だけは、捨て切れず、忘れられず…。普段は神棚に上げて、
 出かけるときゃァ、未だに懐ィ入れてます。ときどき、取り出しちゃァ見てますよ
 ……。
  妙なもんですよ。博打をしちゃァならねぇ、という意見の紙を持ち歩いて、博打
 をうってんですから……。
  別れた女と会ってるような気がするんですかね……。
  つまらねぇ話をしました……」
時「いい話だね…。その女と会ってみたいね…」
虎「会って、どうすんです…」
時「会って、虎さんになり代わって、苦労をしてみたい」
虎「およしなさい。昔の話ですよ。
  若旦那。言っときますが、博打を始めると、いいことはありませんぜ。こいつは
 わかりきったことなんだ。そうなった、あっしが言ってんだから、間違ぇねぇ。
  そういう訳ですから、若旦那。金輪際(こんりんざい)、博打はおやめなさい」
時「金輪際たって、今、始めたばかりだよ。それに勝ったんだから、勝ち逃げはでき
 ませんよ、虎さん」
虎「若旦那ね。博打で蔵を潰したやつは大勢いますが、建てたやつは一人もいねぇん
 ですから。わかりましたね。さ、帰りましょう」
時「でもなァ…。もったいないな…」
虎「さァさァ、立ったり、立ったりッ」


    下の若い者にも、小遣いをやって、二人は表へ出た。
虎「若旦那、みなさい…。もう、薄明るくなってきやした…」
時「ほんとだ…。{後ろを振り返りながら}夕方から、ズーッと二階家(あそこ)で、
 やってたんだ…。えらいもんだね…」
虎「自慢にはなりませんよ、こんなことは」
時「急いで家ィ帰ろうっと…」
虎「お仕事ですか?」
時「ううん。一寝入りして、また、夜、ここィ来ちゃおかなァ」
虎「こりゃ、いけねぇ。若旦那は病みつきになりそうだ」
時「やみつき(闇月)…? そりゃ、とっくに通り越したよ。ほら、明るくなって、
 日が出てます」

2001・2・5 UP